訳すのは「私」ブログ

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オリジナルとはなにか――カフカの場合

まだはてなの書法になれていません(あとで見やすく直します、できれば)。

さて、「自己翻訳」は作品の<オリジナル>とはなにか、という問題にかかわりますが、
これは伝統的に草稿研究がかかわってきた問題でもあります。

たとえば、カフカの作品の多くは生前には刊行されることがなかったため、
編集によってさまざまな手を加えられることになりました。

その場合、いったいどれがカフカの意図を反映したテクストなのか、
編集によるテクストの提示の仕方に<正解>はあるのでしょうか?

そういった問題について論じられているのが以下の本です。


明星聖子『新しいカフカ―ー「編集」が変えるテクスト』慶應義塾大学出版会、2002年。


上記の本は、ブロート版から史的批判版までのカフカのテクストの変化を追いながら、
「狩人グラッフス」などの作品について従来の解釈の吟味・検討のうえで、
新しい読みを試みており、非常に興味深いものになっています。


ところで昨年初めて発表されたナボコフの遺作The Original of Lauraは、
作者が鉛筆で走り書きしたインデックス・カードのファクシミリとその書き起こし、
という特殊な形で出版されました。
このカードのファクシミリ部分は切り離すことができる、という念のいりようです。


これは加藤紘一が言うように*1、編集文献学がカフカの原稿を解体していきついたのと同じ方向性である、ということができるでしょう*2


『新しいカフカ』はカフカ研究者・ドイツ文学研究者以外にも、いろいろと考える材料を与えてくれる本です。

また大学出版会からでた博士論文、というだけで研究者以外の目に触れることが少ないとしたら、ややもったいない気がします(まあ、やや高いですが……)。


ちなみに、『訳すのは「私」』のサブタイトルはこの本のサブタイトルから(少し)きたという…。

新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト

新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト

*1:http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/02/post_182.html

*2:ただ、3月に刊行が予定されている日本語版はそういった形式ではないようですが