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訳すのは「私」ブログ

書いたもの、訳したもの、いただいたものなど(ときどき記事)

鴻巣書評

世界文学とは何か? 書評

デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』を、5月22日の毎日新聞「今週の本棚」で、鴻巣友季子氏が大きくとりあげてくださいました

一般紙では一番大きい2000字の大書評を使って「翻訳書を読むすべての人たちにお薦めしたい一冊」との紹介は望外と言うべきもので、お礼申し上げます。

自分の本の書評と違い、訳書の書評は「自分が好きな本を他人も読んでくれた」という感覚が強いせいか、より素直に喜べる気がします。

(また、拙著にもついでに触れてくださっていて驚きました。今月の『文學界』の「カーブの隅の本棚」でも好意的にとりあげてくださっていたので、二重にお礼申し上げます。「名著」は過分と存じますが…)

書評の結びの「繊細な翻訳観をもつ日本の読者には違和感を覚えるくだりもあるかもしれない」というのは、鴻巣氏のほかの著作(『明治大正 翻訳ワンダーランド』など)から推察すると、長らく「同化翻訳」が幅をきかせていた欧米の翻訳の流れは、超意訳をしていた黒岩涙香の時代から比較的早い段階で原文重視(それは一方で固い訳文の元凶にもなりましたが)になっていた日本とは異なる、ということがおっしゃりたかったのかもしれませんね。




さて、これは書評自体とは直接関係ないことですが、ごくごく個人的にひとことだけ。

書評の最後、訳者の名前がひとりだけ紹介されており、あとは「ほか訳」となっていました。これには頭を抱えてしまいました。

この訳書は以前書いたエントリでも述べたように、六人の共訳でした。だれが「監訳」というわけでもないので、訳者の並びは便宜的に「あいうえお順」になっているにすぎないのです。スペースの都合で訳者名を全部掲載できないのはわかるのですが、もう少しなんとかならなかったのか…と思わざるをえませんでした。

また、こうした「訳者の抹消」という事態は、『世界文学とは何か?』という本の精神に反しているのではないか、という問題も提起するのではないでしょうか。

序章で述べられたエッカーマンのように、訳者は存在が抹消されても「世界文学」を伝達できたことをよしとしなくてはならないのでしょうか(ここでついでに断わっておきますと、訳者陣は版元からこの本に関して翻訳料を受けとっておりません。またそれどころか、翻訳に関して[2011年5月時点で]なんの援助・見返りを受けていません。翻訳のための二年間にわたるミーティングの足代・場所の確保・資料代・経費すべて身銭を切っておこないました。ゲラの送付まで自分のお金で送っています)*1

……もちろんこうしたことは翻訳書の書評に常につきまとっている問題ですし、鴻巣氏とはまったく関係がない(むしろ翻訳家の方なのでよくわかっていることだと思います)ことは強調しておきます。

また、このブログは「私」ひとりの個人的なブログであり、上の見解も6人いる訳者のうちたったひとり(1/6)の個人的な見解であることも強調しておきます。

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)

*1:本の出版について版元をほめる声もありましたが、企画も版元が出したわけではないですし、とくに価格を下げる努力をしたわけでもないし、訳者サイドからするとたいしたことはしてない印象ですね。