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訳すのは「私」ブログ

書いたもの、訳したもの、いただいたものなど(ときどき記事)

カレン・ブリクセンの場合

カレン・ブリクセン(1885-1962)もベケットナボコフと並んで有名なバイリンガル・自己翻訳作家です。


彼女の場合、創作は基本的に英語ではじめに書き、その後デンマーク語に自分で翻訳するという方向でおこなわれました*1。外国語→母語の流れですね。


で、その英語版デンマーク語版を比べた場合、多くの論者が後者の方がよいという評価を下しています。たとえば、


W. Glyn Jones "Karen Blixen's Translation of Her Own Works" Scandinavica 37(1) 1998, pp. 45-65.


によれば、英語版デンマーク語話者特有の癖があるのにたいし、後発のデンマーク語版でブリクセンはより自然であり、また多くの手直しがされていたといいます。


一方、オリジナルの英語版でもそもそもイギリス版とアメリカ版では微妙に違っているとし、その背後に両国の編集者の役割を指摘する論文もあります(ちなみに、個人的にこちらは自己翻訳研究という観点からしてかなりすぐれた論文だと思った)。


Kristine Anderson "Karen Blixen's Bilingual Oeuvre: The Role of Her English Editors" Perspectives: Studies in Translatology 5(2) 1997, pp. 171-189.


こちらではいくつかの翻訳理論もひかれていて、デンマーク語版がかならずしも優位に立つとはかぎらない&英語版の言いまわしは英語を<異化>している、ブリクセンが英語版で変更があるとそれをデンマーク語版に反映しようとしたり、両者の同一性をたもつ努力をしたことがあげられています。


自己翻訳をあつかった論文が陥りがちなのは、とかく二つの版の違いを強調しがちになるということです(まあ同じだったらそもそも論文にならないのでしかたない面もありますが・・・・・・)。しかし、「なぜ違ったのか」や、逆に「どこは同じままなのか」ということに論者の考えが及んでいないと、そもそも作者がなぜわざわざ自作を訳したのかという点が見えてこない結果になってしまいます。。そういう観点が論文の有用性を分けると思います。


私の『訳すのは「私」』も、ナボコフが自作を「どう変えたのか」と同じくらい「なにを変えなかったのか」ということが言いたかったんですよね。けっして単純な書き直しをした、という話ではありません。

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バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

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アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)

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*1:ちなみに1944年以降のいくつかの作品のデンマーク語訳は秘書のClara Svendsenと一緒におこなわれたとのこと