訳すのは「私」ブログ

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Nabokov@New York City1 32 East 61st Street May 26- 1940

さて、1940年5月26日にアメリカについたナボコフは、ナボコフのいとこにして作曲家(1933年から米国に滞在していました)ニコライ・ナボコフ(1903-1978)の前妻のナタリヤ・ナボコフのアパートメントに滞在しました。



They had take a taxi [. . . ] to Natalie Nabokoff's apartment at 32 East 61st Street. [. . .] The newcomers stayed a few days in Natalie Nabokoff's apartment, then moved across the corridor into the rooms of an actress who was setting off on tour. AY12


32 East 61st Street

ここはまったく面影なしです。


数日ナタリヤの元に滞在していたナボコフ一家ですが、その後、廊下を挟んだ部屋に住んでいた女優が留守にしたのでそちらに移ったようです。


後にニコライ・ナボコフは『バガージュ【かばん】』という回想録を出版しました。

Bagazh

Bagazh



Cousin Vladimir lived in want and in "noble poverty" throughout the greater part of the first threescore years of his life. I remember him and Vera always in cramped furnished flats, even as late as his first years In America, in New York and on provincial college campuses. 112-113


ナタリヤ・ナボコフ、旧姓シャホフスコイ(シャホフスカヤ)(1903-)は、やはり亡命知識人・作家だったジナイーダ・シャホフスカヤ(1906-2001)の姉でした。



パリに住んでいたシャホフスカヤはベルリン時代からナボコフと親しかった人物です。しかし、最終的にナボコフの妻ヴェラとのあいだに感情のもつれがあり、疎遠になってしまいました。



ジナイーダ・シャホフスカヤはナボコフの死後に『ナボコフを探して』というナボコフについての小著を出版することになります。その中でナボコフからの書簡が断片的に紹介され、交友関係をうかがうことができます。


シャホフスカヤの死後は書簡はアマースト大のロシア・センターに収蔵されました。
なお、ワシントンDCの議会図書館のアーカイヴを調べたミハイル・ゴールデンベルグという人が、
未刊行の書簡をいくつか出版し、それについてのエッセイも書いています。