訳すのは「私」ブログ

書いたもの、訳したもの、いただいたものなど(ときどき記事)

『アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像』書評まとめ

このエントリに『アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像』の書評をまとめておきます。

書評をくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 

長澤唯史先生『陸奥新報』2018年6月16日、『中国新聞』2018年7月22日、『静岡新聞』2018年9月9日

「作風同様緻密な自己操作」

ナボコフは作品の質については決して妥協せず、芸術性と商品価値を両立させた稀有な作家であった。そして本書も、膨大な資料と最新の文学理論を駆使した最先端の学術研究であると同時に、平明な日本語と卓抜な構成で読者を倦ませぬ、すぐれた知的冒険の書だ。

 

鈴木哲平先生『週刊読書人』2018年7月13日

ナボコフは自己プロデュースに長けた芸術家だった。ただしそれは虚栄心からくるというより、アメリカの亡命生活で気苦労が絶えなかったナボコフにとって、小説とは、優れていれば自然と読まれるものではなく、周到な売り込み戦略が有効な表現であったということを、意味しているように思われる。

 

鴻巣友希子氏『日本経済新聞』2018年7月21日号

 ナボコフは自らの作品だけでなく、自分自身を翻訳したのだ。その過程を具体的に追った本書もまた、卓抜な翻訳論と言えるだろう。[中略]ナボコフの豊かなロシア語作品は皮肉なことに作者の手でならされ、解釈を固定化されたとも言える。秋草はそんな"翻訳の災い"の面にも鋭く切りこむ。 

 

三木朋子先生『しんぶん赤旗』2018年7月22日号

本書はそんな私にもナボコフを読んでみるか!という気を起こさせる説得力のある一冊だった。…圧巻は第三章で、ナボコフの「オネーギン」訳注という浩瀚な窯に…三度も書き換えた「回想記」を投入、見事に自画像を焼き上げる過程を開示してゆくところだろう。…今は亡き米原真理への「注」での言及には証明もなく不誠実な疵をつけている。

 

小谷野敦先生『週刊朝日』2018年10月5日号、60頁

 「知識人作家の実像に迫る」

おそらく何人かのナボコフが好きな人は、本書に怒っているかもしれない。[…]実のところ私は、ナボコフがそれほどの作家とは思っていない。そう思って読むとまたひときわ味わいの違って見える絶妙な本である。

 

森慎一郎先生『KRUG』11号、2018年、76-80頁。

本書は近年のナボコフ研究の動向[中略]から言って、まさしくいま[中略]書かれるべき本であったということ。[中略]ゆえにひと言で言ってしまえば、書かれるべき本が、書かれるべきときに、それを書くべき人によって書かれた、という慶賀すべき出来事が本書の出版だと言えるだろう。

 

西澤満理子氏『世界文学』128号、2018年、83-85頁。

ファンとしてナボコフの作品を解釈しようとするときに、彼自身をとりまく社会背景に目がいかなくなってしまうのは、ナボコフの打ち出すイメージの檻に囚われてしまっているからかもしれない。本書は檻から外に連れ出してくれる研究書である。

 

後藤篤先生『れにくさ』9号、2018年、202―203頁。

 

ほぼ同時期に英国で刊行されたVladimir Nabokov in Context[中略]では若手からベテランまで総勢30名の執筆陣が幅ひろい文脈のうちにナボコフの文学芸術を再定位していたが、同論集に匹敵する国際的な水準の密度と強度を誇る単著が日本語で書かれたことは、まさにわが国のナボコフ研究の画期を示す事件と呼ぶに相応しい。

 

竹内恵子先生『比較文学』61号、2018年、150-153頁。

 

ナボコフの知られざる横顔が次々と明らかになり、旧来のナボコフ像が一新されるという点できわめて野心的でスリリングな研究書だ。[…]評者は本書の全てに賛同するわけではない。[…]なぜなら、ナボコフは本当に亡命ロシア人社会と完全に切れていたのだろうかという疑問が残るからだ[…]。

 

諫早勇一先生『ロシア語ロシア文学研究』51号、2019年、47-53頁。

 

ナボコフという作家の既成のイメージを大胆には開始て再構成してくれるスリリングな本を言えるだろう。[中略]それでも筆者のナボコフにかける思いは変わらないのだろう。皮肉をこめた叙述のなかにも愛情もこめた本書の読後感はどこかすがすがしい。

 

*随時追加します。