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編集文献学と自己翻訳

人文学と電子編集―デジタル・アーカイヴの理論と実践

人文学と電子編集―デジタル・アーカイヴの理論と実践

自己翻訳についての論文が翻訳されていたのでメモ。

ルー・バーナード他編・明星聖子神崎正英監訳『人文学と電子編集ーデジタル・アーカイヴの理論と実践』(慶應義塾大学出版会、2011)

所有の、

ディルク・ファン・ヒュレ「著者による翻訳−−サミュエル・ベケットの『ざわめく静けさ/ぴくりと跳ねて』−−」131−147頁。

編集文献学の観点から自己翻訳をあつかった論文です。

ベケット・アーカイヴに所蔵されている『ざわめく静けさ』の最初の草稿は、フランス語で始まっていますが、続きは英語で綴られています。この草稿の第2葉(MS2933/1)では逆向きの展開が見られます。ベケットは英語で始めたのち、フランス語で書きついでいるのです。

132頁

ベケット自身による自作の翻訳には、テキストをもう1つの言語において再生産することによって、テキストを確立するという逆説的な効果があります。[中略]しかしベケットは、いつも作品の決定稿だけを典拠テキストにしているとは限らないのです。たとえば "Bing" の場合には、英語版の "Ping" がより早い段階の草稿に基づいて書かれたことを示す例が見られます (Fitch 70)。彼は翻訳に際して、必ずしも1つの段階における作品の姿にはこだわらないので、オリジナルや典拠テキストといった考え方そのものが自明性を失うことになり、基点テキスト選定のための一般原則とは言えなくなるのです。

136頁

こうしてみるとベケットの自己翻訳はナボコフとずいぶん違うなあ、というのが率直な感想ですね。

ちなみに監訳者は以前の日記で取りあげたことのある本の著者です。