訳すのは「私」ブログ

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フランコ・モレッティ『遠読――<世界文学システム>への挑戦』みすず書房⑧:書評まとめ

ありがたいことに、モレッティ『遠読』の書評をいくつかいただいております。

 

ほかにも発見次第、このエントリに随時追加していきます。

 

 

7月10日 円城塔さん書評(『朝日新聞』)

 モレッティは本書を、文学の変化とは隣の地域へと新たな形式が広がっていく「進化的」な過程であるとする論文ではじめる。九〇年代から二〇一〇年 代に発表した論文計十編が収録されており、統計的な処理を通して文学を考えるという一つのジャンルの立ち上げを見ることができる。[中略〕科学の言葉であらゆることを押しきるのは横暴だが、便利な道具の利用を禁じるのは馬鹿げたことだ。

 

www.asahi.com

7月17日 鴻巣友季子さん書評(『毎日新聞』)

 

本書を深く理解し読者に伝えながら、同時に鋭い批判も放っている訳注やあとがきも示唆に富む。翻訳はつねに批評だと思い知る。

 

http://mainichi.jp/articles/20160717/ddm/015/070/004000c

 

(なぜか埋め込みできず)

 

 

8月6日 武田将明先生書評(『新潮』2016年9月号、260―261頁)

 

モレッティほどの研究者が、あえてこのような研究に挑戦していることの意義を過小評価してはならない。デジタル時代に批評を志す者ならば、一度は手に取らないといけない書物である。

 

www.shinchosha.co.jp

 

8月7日 牧原出先生書評(『読売新聞』)

 

著者の意図はこうだ。ごく少数の「名作」にのみ焦点を当てた「精読」による解釈には偏向が紛れているのではないか。読まれざる作品が仮に凡作だとしても、それを含めて世界文学の「一般的」な構造とは何か、それはどう進化して現在に至ったのか明らかにすべきではないか。

www.yomiuri.co.jp

 

9月20日 山形浩生さん書評

たとえば、本の題名の長さとその中身はどう関係しているのか? 登場人物のネットワーク分析をすると何が見えてくるのか?などなど。そして、多少こじつけめいた部分もあるけれど、以外におもしろい結果が出てくる部分もある。

方向性はおもしろい。あまりに細部にこだわったり、ウェットな情感に耽溺したりしない、ドライな「読み」の可能性が出ている。

 

cakes.mu

 

12月 戸塚学先生評

 

「世界文学」という問いの発見――F・モレッティ著『遠読 <世界文学>システムへの挑戦』(『世界文学』124号、112-114頁。)

 

「近代ヨーロッパ文学--その地理的素描」は、「遠読」概念着想の契機となった論文である。[中略]モレッティはヨーロッパ文学を複数的・流動的な「分裂したヨーロッパ文学」と捉え、その分裂の過程を文学が成長する生態系として捉えるのである。[中略]一見大胆に見える断言や解釈の背後に分析の蓄積が垣間見えるこの論考が個人的には面白かった。

 

モレッティはしばしば文学作品と社会事象との間の関係性をアナロジーで読み解くが[中略]、こうしたアナロジーは実はアウエルバッハやシュッピツァーらの文体論や構造主義批評の形式分析の延長線上にあり、必ずしも新たな方法の提示にはなっていないように思われる。

 

2017年4月『れにくさ』142―146頁 片山耕二郎さん評

 

ただそうした未来への時計[=遠読]をみずから一分進めるより、今までどおり好きな本を精読することを大抵の人間は選ぶと思うのである。とりわけ文学研究を志すほどの読書好きならば。この点でモレッティは小説の登場人物のように勇敢で、見方によってはヒーローでもあり、しかし悪役でもある。このように『遠読』という本は、そうした主人公の挑戦と成長が描かれたノンフィクションとして読んだとき、もっとも価値があるように思われる。

 

その意味で、このエッセイ[「小説――理論と歴史」]は大変魅力的な失敗作である。それは魅力的な成功作よりもときに価値がある――なぜなら、成功作は発表されるが、失敗作はしばしば、どれだけ興味深い内容を含んでいてもタンスの奥にしまわれてしまうからである。自覚と誇りを持って失敗に跳び込む彼の作法こそが斬新であり、このエッセイを魅力的にしている。

 

比較文学』60巻、2017年、156-160頁 ソーントン不破直子先生評

 

四人の共訳とはいえ、大きな仕事である。訳文の正確さとともに、モレッティの文体の歯切れよさをよく伝えている。また多くの訳注をつけ、邦訳書がある場合はそれを示しているのも親切だ。

 

比較して読んでみるのも一興かと思います。