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訳すのは「私」ブログ

書いたもの、訳したもの、いただいたものなど(ときどき記事)

村上春樹の「自己重訳」

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

村上春樹はどう誤訳されているか―村上春樹を英語で読む (MURAKAMI Haruki TUDY BOOKS)

村上春樹はどう誤訳されているか―村上春樹を英語で読む (MURAKAMI Haruki TUDY BOOKS)

すっかり間が空いてしまいました。


これは本の「まえがき」で触れたのですが、アメリカ版の短篇集の日本語版として出版された『象の消滅―短篇選集1980-1991―』で、作者の村上春樹はアルフレッド・バーンバウムによる英訳版「レーダーホーゼン」を日本語に訳しなおすという「遊び」をしています。


作者が自分の作品をほかの言語に訳すことを「自己翻訳」self-translationと言うのなら、これはさしずめ「自己重訳」self-double-translationとでも言うべき現象でしょうか。


そこで起こっている興味深い翻訳の実態に以下の論文では触れられています。

圓月優子「村上春樹の翻訳観とその実践―「文学四重奏団」から「レーダーホーゼン」へ―」『言語文化』12-4、2010年。*1

バーンバウムがオリジナル・テキストを英訳する際に誤解した表現などですら、その誤解のままに再び日本語に翻訳しているのだ。一例をあげると、オリジナル・テキストでは両親の離婚のいきさつを語る女性が母に対する憤りについて「母は何の説明もなく父親とこみで私を捨ててしまったのよ」(p. 27) と述べるのだが、おそらくバーンバウムは「こみ」という単語の意味を誤解したのだろう、この部分を “And yet here was Mother throwing me out with Father, like so much garbage” (p. 124) と英訳している。それを受けて村上はこの箇所を「私をお父さんと一緒に、まるで生ゴミか何かみたいにあっさり捨ててしまった」(p. 173) と素直に和訳しているのである。

他人の誤訳が生んだ直喩を、そのまま自作に持ちこんだというのは珍しい気がします。


村上春樹はその人気からか、翻訳の出来がファンの間で取りざたされることはめずらしくないです。
実際、英訳の誤訳を収拾した塩濱久雄『村上春樹はどう誤訳されているか』という本もあるぐらいです(これはかなりの珍本ですが……)。


一方で、上記の論文にもあるように、村上春樹は翻訳者としての顔も持っています。


おそらく村上はこうした翻訳をなかば意図的にすることで、英訳者を擁護しているのだと思います。


しかし、それが誤訳や、作品の一部のカットといった鷹揚さであれ、結局のところ、翻訳に対する干渉になっているのではないか、と考えることもできます。


その意味では村上も「訳すのは『私』」の作家なのでしょう。

*1:以下のURLから読めます(PDFが開きます)。
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00015078&elmid=Body&lfname=006012040001.pdf