訳すのは「私」ブログ

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『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』「第一章  9・11後の翻訳――戦争技法を誤訳する」(抜粋)公開

 エミリー・アプター『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』の「第一章  9・11後の翻訳――戦争技法を誤訳する」(抜粋)を特設サイト内で公開しました。 

  

  9・11の衝撃が冷めやらぬなか、アラビア語通訳が払底していることがわかると、米国で翻訳が議論の的になった。突如白日のもとにさらされたのは、単独行動主義ユニラテラリズムと自国文化中心の対外政策の元凶である単一言語使用モノリンガリズムに、世界が激怒しているという事実だった。単一言語使用の慢心が、国務省諜報機関の翻訳能力への国民の信頼とともに霧消しても、多国籍軍の英語中心主義が生んだ精神的、政治的危険性が満足に検討されることはついぞなかった。誤訳の「テロ」はいまだ病理を特定できていないばかりか、機械翻訳に切り替えていく処置をとっても、恐怖を鎮める役にはほとんど立たない。イラク戦争開戦前の二〇〇二年十月二日、MSNBCはこう報じていた。

米軍がイラクを近日中に急襲した場合でも、捕虜の尋問から化学兵器の隠匿場所の特定まで、全局面で有用な電子翻訳機の助けをあてにできます。「手を上げろ」のような命令をアラビア語会話やクルド語会話に変換してくれるだけではなく、一刻を争う諜報活動にあっても、世界一難しい言語からの迅速な翻訳が可能だと軍当局者は期待をよせています(1)。

国防高等研究計画局DARPAが開発した「野外/戦場フイールド」使用目的の携行機械翻訳装置への依存は、ボスニア戦争では顕著に見られた傾向だった。広く使われたプログラムには、お気楽にも「外交官」なる名称がつけられていたものもあった。しかし、使用の結果あてにできないとわかり、ひどい場合には致命的な欠陥さえあった。誤訳の代償は死だ。戦争という劇場にあっては、マシンエラーはたやすく「同士討ちフレンドリー・フアイア」、あるいは標的の撃ちもらしによる死を招いてしまう。

 

 本書の中心的なテーゼである「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」が出てくる章でもあります。

 

私の考える誤訳とは、戦争技法上の歴とした事項だ――戦略および戦術に不可欠かつ、死体画像の解読法と不可分であり、軍需品マテリエルであって、つまり広義にはインテリジェンスのハードウェアとソフトウェアを指している。誤訳は国交断絶の別名であり、パラノイアじみた誤読の別名である。カール・フォン・クラウゼヴィッツによるいまだ実用に供する定義「戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない(5)」をなぞって、私は「戦争とは他の手段をもってする誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない」と言ってみたい。別の言い方をすれば、戦争とは無翻訳性や 、翻訳失敗状態 、暴力の極限に達したものだ。

 

 

 

 

ちなみに、原書の刊行元のプリンストン大学のサイトでも第一章を読むことができます。

press.princeton.edu