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ミハイル・シーシキン「ナボコフのインクの染み」

以下に著者の許可をえて、ミハイル・シーシキンさんの短編を翻訳して公開します。

(著者については記事の最後をご覧ください)

 

ミハイル・シーシキン「ナボコフのインクの染み」

 

 作り話なんてする必要もない。

 私はチューリッヒ・クローテン空港の到着ロビーに立っていた。手には「コヴァリョフ」という名字の書かれたネームプレートを持ち、自分の幸運に感謝していた。

 息子が生まれてまだ一年も経っていないころだった。妻は家で赤ん坊の面倒を見なくてはならず、私は求職中だった。出費は切りつめていたが、私のたまの稼ぎだけでは、家賃すら払えなかった。ちょうど、誕生日が二つ迫っていた――まず息子、次に妻のが。なんとしてもプレゼントのためのお金を工面しなくてはならなかった。そこに幸運が舞いこんできた――たまに通訳の仕事をまわしてくれる、ある会社から注文が入ったのだ! 空港にクライアントを迎えに行き、ホテルまで送りとどける。そのあと銀行と、モントルーにも連れていく。

 そんなわけで、私は出迎えの雑踏の中に立ち、よろこびを噛みしめていた。臨時収入以外にも、ナボコフのツアーが控えているせいで心は浮きたっていた。クライアントは「モントルー・パラス」の、作家が住んでいたのとまさに同じ部屋を予約していたので、アテンダントの通訳にも、この聖域が開示されるチャンスが降ってわいたからだ。ネームプレートを手に、到着が遅延している航空便を待ちながら、私は自分がまさにあの、作家が使っていた書きもの机の前に座って、引きだしを開け、有名なインクの染みを目の当たりにするところを想像した――幾度となく本で読んだあの染みを。ナボコフのインクの染み! 指で触れるかもしれない!

 じきにコヴァリョフと会うことができた。彼のことはすぐにわかった。当然だが、向こうはそうではなかった。こちらだってあのコヴァリョフかもしれないなんて、ちらりとも思いもしなかったのだ! 「コヴァリョフ」なんて、そんなに珍しい姓でもないんだから。

 とっさに閃いたのは、奴にネームプレートをわたして、踵をかえして帰ってしまおうかという思いつきだった。

 だが、向こうは妻と娘を連れていた。五歳になる娘はにっこりほほえむと、機内でも肌身離さず持っていたペンギンのぬいぐるみをこちらに差しだした。どうしたものか戸惑ったが、どうやら挨拶してやればいいようだった。ペンギンの名前はピンガといった。

 そこで帰ってしまうのはやめにして、私はコヴァリョフに手を差しだして、こんな場合に言うべきことを全部言った――「チューリッヒにようこそ! フライトはどうでしたか?」

 私は彼を案内して滞在先の「ボー・オー・ラック」に向かった。街で一番の高級ホテルだ。

 タクシーの車内で、コヴァリョフは次々降ってくる緊急の案件に二台の携帯電話でてきぱきと対応をし、わずかな休憩に私との会話をはさんだ。その判断はなにかにつけ断定的だった。

「スイス航空はどうしようもないな! 遅れるし、サービスも最低だ!」

とか、

「アルプスはあんなものか。ロシアのアルタイ山脈にも似たような場所はあるぞ!」

とか、

「スイス人がこんなにお行儀よくしてられるのも、二百年間誰も尻を叩かなかったからだ!」

みたいなものだった。

 ただの付き添いの通訳者である私は、まぜっかえしたりはしなかった。私の報酬は時給換算で支払われる約束だった。

 私の記憶するコヴァリョフは、白っぽい金髪の痩せた若者で、コムソモールのバッジを付けていた。そんなものを付けている人間はほかに誰もいなかったが、コヴァリョフですら、大学の外では外すのだった。だが歳月は過ぎ、奴は高そうなスーツに身をつつみ、社会的地位に応じた下っ腹、歳のわりに後退した生え際の「新ロシア人」として私の前に現れたのだった。

 かつて奴と私は、レーニン記念モスクワ国立教育大学でともに学んでいた。私はドイツ語学科に在籍していた。彼は英語学科で、二学年上だった。奴はコムソモールの幹部であり、学科や大学の集会では前に出て演説をおこなった。党大会の決定を、悦ばしき啓示がごとく、自信に満ちた声で伝えた。おかげで大学当局はコヴァリョフを重用していたが、私たちは同じ理由で奴を蔑んでいた。大学卒業後もコヴァリョフは首都地区の党の組織に残った。このまま、ずっと先まで同じ人生を歩んでいくのはわかりきっていた。

 いま、コヴァリョフはまったく別の人生を歩んでいた。だが、コヴァリョフはそこでも上にいるのだった。私は下にいた。

 コヴァリョフは私を通訳として使うつもりなどなかった――ホテルでは流暢な英語で自分で手続きを済ませてしまうと、銀行に商談にむかった。私は、コヴァリョフの妻と娘のチューリッヒ散歩についていった。かつての同窓生は、通訳ではなく召使として私を雇ったのだ。ガイド兼召使も、コヴァリョフの地位に似合いのものだった。

 妻はイリーナといった。やはり、コヴァリョフの地位に似合いの妻だった――若くて美人、もちろん金髪だ。チューリッヒ散歩もまた、その地位に応じたものだった。バーンホーフ通りのブティックで高価なものを手当たり次第に買い占めた。娘のヤーノチカはショッピングに退屈してしまったので、私はペンギンの話につきあって気をまぎらわせてやった。

 ヤーノチカは言った――「ねえねえ、ペンギンって半年間なんにも食べないでいるほど自分の子供が好きなのよ。そのあいだ赤ちゃんがはいった卵を温めてるの。凍えないようにって」

「うん、そんなのをテレビで見たことがある。しかも、ペンギンの卵を孵化させるのはパパの役目みたいだね」

「ほんと?」――ヤーノチカは驚いた――どうやら、その情報は彼女自身の父親の自慢にもなるもののようだった。「パパは欲しいものなんでも買ってくれるの! しかもポニーに乗せてくれるって約束してくれたんだ!」

 イリーナはどうやら、一度ならずチューリッヒに来たことがあったようで、しまいには私ではなく、彼女が店を案内していた。私はあきらめて、彼女の買い物に付き従った。買い物のあとで、カフェ・シュプリュングリに入って休んだ。話によれば、イリーナは元アスリートで、新体操の選手だったようだ。体型からもそれは見てとれた。どうやら、イリーナは話し相手が欲しいようだった。夢はトレーナーとして働くことだったが、夫は家で子供と過ごしてほしがっていた。カフェで私は、いかにコヴァリョフがよき父親で、目の中に入れても痛くないほどヤーノチカを溺愛しているか聞かされる羽目になった!

 私はイリーナのそぶりから、彼女が本当にコヴァリョフを愛しているのか、それとも単に金目当てで結婚しただけなのか、推し量ろうとした。愚かな金髪娘という印象はまったくしなかった。どうも、本当にコヴァリョフのことが好きらしい。

「本当は買い物なんてうんざり」――ふと、イリーナは打ちあけた――「ただ知り合いと親戚にお土産を買わなくちゃならないから。いつも誰かの分を買い忘れたかもって不安になるし」

 別れ際にはアネクドートも披露してくれた。

チューリッヒのバーンホーフ通りで二人の新ロシア人が会いました。ひとりがネクタイを見せました。『見て! そこのブティックで二千フランで買ったんだ!』もうひとりが言いました。『まったく馬鹿だな! まったく同じのをあのブティックで三千フランで見たよ!』」

 イリーナの笑い声はころころとよく響いた。ピンガは翼を振ってくれた――ひょっとするとひれかもしれない。翌朝までのお別れだ――明日はいっしょにモントルーに行く手筈になっていた。

 その夜、家の息子はなかなか寝つけず、ぐずっていた。体温も高かった。妻が歌った子守唄は、自分の母親が昔歌ってくれたものだった。

 

Schlaf Chindli, schlaf

De Vater hüetet d Schaaf

De Mueter schütlet s Boimeli

Da falled abe troimeli

Schlaf Chindli, schlaf

眠れ わが子よ 眠れ

父さんは ヒツジの世話をしているよ

母さんは リンゴの木をゆする

すると 夢が木から落ちてくる

眠れ わが子よ 眠れ

 

この歌では、枝を揺らすと木から眠りが落ちてくる。

 私もまったく寝つけず、妻の子守唄と息子の息づかいに耳をすませていた。私にとって一番大切な二人。二人のために仕事がどうしても必要だったし、金がどうしても必要だった。息子にもいつか、こう言ってほしかった。

「パパはぼくがほしいものをなんでも買ってくれるんだ!」

 だが金もなければ、きちんとした仕事も見つからず、この手の臨時収入でやりくりしていた。妻が両親から私に内緒で金を受けとっていないか、いつも気にしていた。みじめだった。

 赤ん坊はすーすー寝息をたてはじめ、妻も私に寄り添って横になった。だが、私はまったく寝つけなかった。妻は言った。

「ねえ、何があったの? 辛いことがあったみたいだけど。何があったのか、話してくれてもいいじゃない! 家族はいつだって一緒なんだから!」

 私は妻にコヴァリョフのことを話した。何年も前、奴は太鼓持ちで、軽蔑していたことを。

「もし別の場所で会っていたら、握手していなかったろうね。この場所で、奴が大金を持っているから握手したんだ。そしてぼくは奴の太鼓持ちだ」

「あなたは太鼓持ちなんかじゃないわ。お金を稼いでいる。自分の仕事をきちんとこなしている。それだけ。どんな仕事も誠実にやらなきゃ」

 私はなんとかわかってもらおうとした――「お金というのは匂うんだよ。国がちがえば匂いもちがう。スイスのお金はわきにデオドラントをつけてるんだ。でもロシアでは悪臭がする。小さな金は汗と貧困の匂いがするが、大金は……」

 妻は私の口を手でふさいだ。

「まあ! よくわかったわ。断りなさい。必要ないわ。お金なんてどうでもいいわよ! さあ寝ましょう。もう遅いわ!」

 私はコヴァリョフについてもう少し話したかった。どうやってあれを全部手にいれたのか? ここに金のたんまり入った袋を持ってやってきた。そのおこぼれに私もあずかるのだから。太鼓持ちをきちんとこなして臭い金を懐に入れる。それを誠実にやらなくちゃならない!

 私はもうなにも言わなかった。赤ん坊がまた目を覚まして、泣きだした。

 次の日、モントルーにクライアントの一家と出かけた。

 道すがら、コヴァリョフは自分の意見を披露してくれた。

 「速度測定器がアウトバーンのあちこちに置いてあるな。怖いんだな。生きずに、怖がっている! 車を飛ばす恐怖で震えている。生きる恐怖で震えている!」

とか、

「なんでスイスに軍隊なんてあるんだい? アルプスを飛ぶ飛行機数機のために何十億も払って自己満足しているのかい? 金があっても使い方を知らんのだな!」

とか、

ナボコフは天才だ! 最近の作家はみんな糞だよ!」

みたいなものだった。

 私の古なじみのナボコフへの情熱は、コムソモールとしての過去とも、ビジネスマンとしての現在とも、まったく結びつかなかった。でもあえて訊ねてみることはなかった。それに、なんと愚かな質問だろう――なぜひとはナボコフに魅かれるのだろうか?

 とにかく不思議だった。若いころ、ナボコフはこっそりとやりとりされるものだった。自分たちは蛮族から迫害を受けるセクトで、ナボコフの本は秘密の宝物のように思っていた。当時、ナボコフを境に明確な線が引かれていた。こちらとあちら。コヴァリョフはあちら。いま、私をモントルーに連れていくのはコヴァリョフだ。まったく、わけがわからない……。

 コヴァリョフの娘が酔ってしまい、何度か車を停めなくてはならなかった。コヴァリョフは後部座席の娘のそばに移って、いろいろ話をして気を散らそうとした。コヴァリョフの話のヒロインはいつもヤーノチカで、つぎからつぎに盗賊の手に落ちたり、ドラゴン退治に出かけたりして、戦わなくてはならなくなる。お話のなかのヤーノチカはいつも勝つのだった。娘はじっと聞いてはいたが、笑いはしなかった。

 二月、モスクワは吹雪いている最中だったが、モントルーははや春が訪れていた。太陽が空と、鏡のような湖面に燃えていた。かもめが舞い、人生は軽やかで心浮き立つものになった。有名な湖岸沿いの通りは、その頃はまだイスラム教徒のブルカで黒く染まってはいなかった――毛皮にサングラス姿の老人たちが闊歩していた。コヴァリョフはコートをはだけ、レマン湖から伸びるサヴォイ・アルプスの方をむいて目を細めた。

「やあ、思っていた通りだ!」

 私は際限なく、街角という街角でコヴァリョフと妻と娘の写真のシャッターを切りつづけた。

 モントルー・パラスのチェックインの際、コヴァリョフはフロントの女性に本当にナボコフが住んでいた部屋がとれたのか、疑り深く何度も問いただしていた。言質がとれてもまだ納得せず、スーツケースを部屋まで運んでくれた、顎ヒゲのエレベーターボーイにも同じことを訊ねていた。エレベーターボーイも、まちがいないと断言してくれた。エレベーターボーイはセルビア出身だった。その少し前に、ユーゴスラヴィアは内戦でおびただしい血が流され、アメリカ軍によるベオグラード爆撃が行われていた。セルビア人のエレベーターボーイはこちらが話すロシア語を聞いて、ロシアがセルビアを支持したことへの礼としてチップの受け取りを拒んだ――すぐに二倍の金額を受けとることになったが。コヴァリョフとエレベーターボーイはハグさえした。

 ナボコフの部屋にコヴァリョフはがっかりしたようだった。ヴェラの死後、改築があって、作家の住んでいた部分は独立した部屋として区切られたという説明をしたが、コヴァリョフは斜めになった低い天井、狭い窓に、猫の額のようなバルコニーに苛立っていた。

「こんなところにどうやって住んでいたんだ?」

 部屋の壁には古いナボコフの写真が何枚もかかっていた。コヴァリョフはそれぞれのポーズを真似てみようとした。電話で部屋にチェス・セットを持ってきてもらうように頼むと、バルコニーに出てイリーナと盤を挟んで座った――ナボコフとヴェラがそうしていたように。私は何度も撮り直ししなくてはならなかった。

 さらにコヴァリョフは書きもの机の前に座っているところも撮影したがった。私が思ったのはこんなことだった――ナボコフが死んでいてよかったと。

 コヴァリョフと妻がバルコニーに出た瞬間を見計らって、私は机の伝説の引き出しを開けてみた――かつて読み、長年触れてみたいと夢みていた記念の染みがそこにあった。指で触れてみた。なにを感じたかったのだろうか、自分でもわからない。だが、ヤーノチカが邪魔をした。駆け寄ってきて、引き出しを覗きこんだのだ。

「なあに? 見せて?」

「見てごらん!」――「染みだよ」

 ヤーノチカは驚いて、がっかりしたようだった。

「染み……」

 コヴァリョフがこの部屋は少し小さいと言いだして、三人は別の、もっと大きな部屋に泊まった。

 私は二日間、駅の隣のホテルに部屋をとってもらった。

 モントルーで最初にしなくてはならなかったのはポニーを探すことだった。コヴァリョフは妻とホテルの部屋に残り、私とヤーノチカは馬に乗りに出かけた。子馬は悲しそうで、尿と汗の匂いが鼻についた。

 どういうわけかヤーノチカは私になつき、別れたがらなかったので、コヴァリョフに夕食に招かれた。テーブルでコヴァリョフはレマン湖の美しさ、スイスの清潔さ、治安の良さを絶賛しつつも、不満もこぼした。ホテルのサウナの温度が十分ではないこと、エントランスにガードマンがいないこと(誰でも入れてしまう)、だが一番はどこに行ってもロシア人がいることだった! 不思議なことに、コヴァリョフは同郷人の多さに苛ついていた。

 驚いたのは、イリーナが夫を愛おしそうな目つきで見ていることだった。こんな熱っぽい目つきは演技ではできない。

 エヴァ・ブラウンの謎というやつだ。なぜ女性は犯罪者や人でなし、俗物を心から愛せるのか? 誰でもいいから、いつか私に納得のいく説明をしてほしい。

 デザートを食べながら、コヴァリョフは言った。

「よくこんなところに住めるな? 退屈だよ! 本当にここに住んでるの? 気が滅入っちまうよ!」

 コヴァリョフの勘定で食事をしていた私は全面的に同意した。

「ここの西欧人ときたら」――満足げに咀嚼しながら、コヴァリョフは言った――「貪欲に金を貯めこんで、なんでも明日に引き延ばす。ところが、ロシア人は貪欲にいまを生きているよ。いまなにかをえなければ、明日にはなにもかも失うかもしれないからな!」

 コヴァリョフは万事貪欲だった――貪欲に食べ、貪欲に笑い、貪欲に湖からの風を鼻孔に吸いこんだ。写真撮影でさえ貪欲だった。何事にも十分ということはなかった。

 だが、コヴァリョフが何よりも好んだのは娘と一緒の写真を撮られることだった。娘のことをうさちゃん(ザイカ)と呼んでいた。それが、私にはどうもおもしろくなかった。というのも、息子のことを家でザイカと呼んでいたからだ。

 夜、私は駅のそばのホテルのベッドで寝がえりをうっていた。自己嫌悪で眠れなかったのだ。これは嫉妬心なのだろうか? なぜナボコフの部屋に泊まっているのは私ではなく、奴なのだろう? ナボコフを好きなのは私なのだし、ナボコフの本に救われたのは私の方だったのだ。私はなぜかずっと、もしあの秘密の染みに触れることができたら、とても大切なことが――なにかの秘密がわかるような気がしていた。そしてやっと指を触れた――さて、なにかわかったのだろうか? なにかの啓示でも受けたのだろうか? 

 私は横たわったまま、深夜、たまの列車が通りすぎていく音を聞いていた。また同じ、忌むべき思考が脳裏によぎった。どうしてコヴァリョフは妻と娘をよろこばせてやれるのに、私は金持ち一家の太鼓持ちに甘んじているのか。あのしたり顔が私の息子や妻にプレゼントを買う金をくれるからというだけで! 奴は何者なんだろう? 吐き気を催すあの時代、人は小さな卑劣――沈黙――と大きな卑劣――演説をぶつこと――を選ぶことができた。奴は嬉々として大きな卑劣を選んだのだ。常に――どの時代だろうが、どの国だろうが――生きていくうえで最小限の卑劣は存在する。だが、最小限に抑えることは可能だろう。でも、この人生でなにかを勝ち得ようとするのなら、なりふり構ってはいけないのだろうか? どんな卑劣に手を染めればあれほどの金を稼げるのか? ふと、翌朝こうして思っていることを全部、面と向かってコヴァリョフにぶちまけ、ドアをバタンと閉めてでていくところを想像した。すると、たちまち寝入ってしまった。

 朝、私は一家をシヨン城のツアーに連れていったが、よくしゃべり、気配りも欠かさなかった。当時、私は著作『ロシアのスイス』用の資料を収集していた。おそらく、ガイドとして悪くはなかったはずだ。私はシヨンが昔からロシア人でにぎわっているわけについて話をし、気の利いた引用を散りばめた。

 私は自己嫌悪に陥った。だが、自分の目的は見失わなかった。

 その晩、典型的な「車内」での会話があった[1]

 イリーナは娘を寝かしつけに先に部屋に戻った。コヴァリョフと私はホテルのバーで、一番高いコニャックを一瓶とった。コヴァリョフは私に話し相手になってほしかったわけではないだろう。たぶん、自分がスイスのスーパーマーケットのレジ係の一か月分の給料の値段の酒を、さりげなく注文したという事実の証人が必要だっただけではなかったか。

 私たちは乾杯した。コニャックは実際、すばらしかった。記憶によれば、私はモントルー・パラスでナボコフソルジェニーツィンがもう少しで会うところだったという話をした。愉快な話だ。お互いに手紙でやりとりし、会う約束をした。ナボコフは日記にこう書いた――「十月六日、ソルジェニーツィンが妻と」。ソルジェニーツィンの方は、ナボコフからの確認の返事を待っていたようだ。ソルジェニーツィンは妻のナタリヤをともなってモントルーに行き、ホテルのそばまでたどり着いたが、ナボコフは体調が悪いか、なにかの理由で会いたくないかもしれないと考えて結局訪問を躊躇してしまった。そのあいだ、ナボコフ夫妻はホテルのロビーに座ってずっと待っていた――レストランでランチを注文して――相手がなぜ来ないのかわからないまま。その後、二人は会うことはなかった。

 コヴァリョフは肩をすくめた。どうやら、コヴァリョフは愉快な話だとは思わなかったようだ。

 さらに杯を重ねたあとで、不意に彼はにやりと笑った。

「顔を見て、知っていると思ったのだけど、どこで会ったのかどうしても思い出せない。前に会ったことがあるかい?」

 私はないと断言した。

 イリーナが電話してきて、部屋にヤーノチカといると言った。コヴァリョフは私に、どうしてスイスに来たのかや、私のスイス人の妻について訊きはじめた。

「お花とチョコレートのなかで飽きないのかい?」

 コヴァリョフは私よりもペースが早かったので、じきに酔っぱらってしまった。突然、藪から棒に、コヴァリョフは最初の結婚の話をした――最初の妻はどうしようもない人間だったのだ。やっと離婚できたとき、どれほどうれしかったのか。

「裁判所を一歩出た瞬間、空を飛んでいるみたいな気分だった! 結婚なんて二度としないと誓ったよ。そのまま五年もったよ。そこでイリーナだ! イリーナのことを気が狂いそうなほど愛しているんだ! あんな女性を好きにならずにいられるかい? イリーナの体つきを見たかい? ええ、見ただろう?」

 コヴァリョフには話している相手の膝や肩を叩く、不愉快な癖があった。

「ヤーノチカのことを愛していて、なんでもしてやりたいんだ! わかってくれるかい?」

 私はただただうなずいていた。コヴァリョフにはそれで十分だった。

 いつの間にか夜もとっぷり更けていた。コニャック一瓶では足りず、コヴァリョフは追加の酒を注文した。

 コヴァリョフはなにか聞き取りにくいことをぶつぶつ言っていた――自分のビジネスについて。関わり合いを持たざるをえなかった悪党について。そういった汚い仕事をイリーナとヤーノチカのためだけに、自分がいかに嫌々やっているかということについて。

「これだけはわかってくれ」――バーにいる全員がこちらを向くような大声で叫んだ――「俺にはヤーノチカが世界で一番大事なんだ! 俺はあの子のためになら人殺しもできるぞ! あの子に指一本でも触れてみろ! あの子のためならなんだってやる! 悪党にだってなってやる! 糞だって食ってやる! 娘の、俺のザイカのためならなんでもやってやるぞ!」

 コヴァリョフが耳元でささやいてくれた話によると、何かが自分の身に起きたときでも、スイスで妻と娘が安全に暮らせるようにしてあるらしかった。

「何が起きるかなんて誰にもわからないからな。ヤーノチカがここで育ってくれるよう、手はずを整えてきた。きみらの国だ。花とチョコレートのなかで暮らせるよう、万事準備してきた!」

 すっかり酩酊したコヴァリョフは、命を狙われているという告白をはじめた。

「殺害の命令が出ている! その事実をつかんでるんだ! 誰が命じたのかも!」

 どうも、コヴァリョフは自分がどこにいて、誰と話しているのかもよくわかっていないようで、ひたすら酩酊して大声を出していた。

「奴らの手にはすんなりとは落ちないぞ! この歯で命にしがみついてやる! そう、この歯でだ!」

 私たちはバーを出て、湖の方へ降りて行った。

 湖岸に立っていると、対岸の山は霧に包まれて見えず、まるで海辺に立っているかのようだった。コヴァリョフは深夜のレマン湖にむかって叫んだ。

「殺される? 誰が? 俺がか!? 俺だって殺してやりたいやつがいる!」

 突然、コヴァリョフは湖に入って泳ぎだそうとした。私は明日多分泳げるからと言って、なんとかなだめた。コヴァリョフは叫びかえした。

「ふん、お前の湖は明日は多分ないんだろうな!」

 私は思わず笑った。

「どこに消えちまうんだい?」

 コヴァリョフは手を振った。

「お前はなんにもわかっちゃいないな!」――そして、おぼつかない足取りでホテルの方に歩き出した。

 だが、私はまだ湖岸通りをぶらついていた。自分が酔っていて、独り言を言っているとわかってはいた。深夜、たまの通行人が、こちらを振り返って見ていた。私はこうつぶやいた。

「「もしなにかあったら」だって? 奴は妻と子供のために準備してきた。でもお前ときたら、まったくだ。お前は奴を軽蔑しているが、奴よりマシな人間なのか?」

 突然、明日には湖はないかもしれないという予感が、強く湧きあがってきた。

 翌朝、私たちは別れた。私は朝食をとってからモントルー・パラスに向かった。コヴァリョフの顔つきは生気がなく、目は赤く充血していた。こちらを重苦しい、好ましからぬ目つきで見つめた。

「昨日はなにか余計なことを言ったかもしれんが、忘れろ! いいな?」

 私はうなずいた。

 コヴァリョフからもらったチップは、王様並みだった。気の利いた映画なら、テーブルに金を置いて、胸を張って部屋を出ていくところだ。でもこれは映画ではなかった。

 イリーナとはほとんど友人のように別れた。ヤーノチカはぎゅっとしがみついて離してくれなかった。

 その後、二度と会うことはなかった。

 誕生日、妻はプレゼントが入った小箱を開けた――私は妻の幸せそうな笑い声をどうしても聞く必要があったし、ベビーベッドでほほえむ息子をどうしても見る必要があったのだ。

 大切なのは、自分にとってかけがえのない人たちのことだけ――ほかのことはどうでもいい。

 数か月後、普段のようにコンピュータの画面を眺めていると、見覚えのある名字が入ったニュースが目に飛びこんできた。さる大銀行の取締役のコヴァリョフが自宅前の路上で射殺されたというものだった。当時のモスクワではありふれたニュースではある。検索してみると、写真が出てきた。たしか、犯人は玄関口で待ちかまえていて、頭部を正確に撃ちぬいたという――隣人が窓から一部始終を目撃していたそうだ。

 妻と娘がその後どうなったかのはわからない。もうあれから何年も経ってしまった。いまヤーノチカはすっかり大きくなっているにちがいない。どんな風だろうか? 父親が亡くなってから、どう育ったのだろうか? 本当にここスイスのどこかに暮らしているのだろうか。

 ふと思った――ヤーノチカ、この文章を読んではいないだろうか? 人生なんてなにが起きるかわからないものなのだから……。

 あのツアーを覚えていないだろうか? 記憶に残っているのはポニーに乗ったことくらいかもしれない。ピンガはどうしただろう? きっと、ずいぶん前からこの世にはいないんだろうね。

 お父さんのことを覚えているかな? 私たちの大学や、ほかのことなんかを、あとで話すつもりだったのかもしれない。なぜ命を狙われたのかも。そんなつもりはなかったかもしれない。

 ええと、大切なのは、きみのことを世界で一番愛していた人間がいたってこと――ほかのことはどうでもいいんだ。

 そう言えば、インクの染みは覚えているかな?

 二〇一二年

 

[1] ロシアで、見知らぬ人同士が、列車内で同室になると、心情を吐露し、そのまま別れることがしばしばあることから。

 

ミハイル・シーシキンは1961年生まれのロシアの作家。95年よりスイスに移住して文筆活動をおこなう。現代ロシアを代表する作家として目され、主な著書に『ヴィーナスの毛』『皆を一夜が待っている』『イズマイル陥落』などがある。ロシア・ブッカー賞、ボリシャーヤ・クニーガ賞など主要な文学賞を受賞してきた。日本語で読める作品としては『手紙』(名倉有里訳、新潮社)がある。本作品は作品集『バックベルトの付いたコート』に収録されている。なお、この作品集から表題作がアンソロジー『ヌマヌマ』(沼野充義沼野恭子訳、河出書房新社)に訳出収録されている。