今週の火曜日に作品社に出張して念校を4、5時間見てなんとか水曜に戻せるようにしました。その結果?、発売日が7月6日?に決まりました。
当初、300頁ぐらいでおさめるように、と言われていたのですが、総ページ数448頁?と大幅に膨れあがってしまいました。今回を逃すと、もうエッセイ集なんて出せないでしょうから、あれもこれもと詰め込み、解題と訳者あとがきと索引を加筆した結果です。まさに「塊」じみてきました。
最終的に、目次はこんな感じになりました。
錫でできた星――ロシアへの郷愁
・「ロシアの川」(1924年)・「ケンブリッジ」(1921年)
・「笑いと夢」(1923年)
森羅万象は戯れている――遊ぶナボコフ
・「塗られた木」(1923年)・「ブライテンシュトレーターVSパオリーノ」(1925年)
・「E・A・ズノスコ=ブロフスキー『カパブランカとアリョーヒン』、パリ」(1927年)
・「オペラについて」(1928年)
流謫の奇跡と帰還の奇跡を信じて――亡命ロシア文壇の寵児、V・シーリン
・「一般化について」(1926年)・「ソヴィエト作家たちの窮状について少々、およびその原因を特定する試み」(1926年)
・「美徳の栄え」(1930年)
・「万人が知るべきものとは」(1931年)
ロシア文学のヨーロッパ時代の終わり――亡命文学の送り人
・「Ju・I・アイヘンヴァリドを追悼して」(1928年)・「A・O・フォンダミンスキー夫人を追悼して」(1937年)
・「ホダセーヴィチについて」(1939年)
・「定義」(1940年)
・「I・V・ゲッセンを追悼して」(1943年)
・「『向こう岸』へのまえがき」(1954年)
英語の母音はレモン、ロシア語の母音はオレンジ――駆け出し教師時代
・「ロシア語学習について」(1945年)・「ロシア学のカリキュラムにおける位置」(1948年)
張りつめているように見えて、だるだるに弛みきっている――口うるさい書評家
・「イヴァン・ブーニン『選詩集』現代雑記社、パリ」(1929年)・「『現代雑記』三七号、一九二九年」(1929年)
・「ディアギレフと弟子」(1940年)
・「サルトルの初挑戦」(1949年)
文学講義補講 第一部 ロシア文学編
・「プーシキン、あるいは真実と真実らしいもの」(1937年)・「決闘の技法」(1964年)
・「レールモントフ『現代の英雄』訳者まえがき」(1958年)
文学講義補講 第二部 劇作・創作講座編
・「劇作」(1941年)・「悲劇の悲劇」(1941年)
・「霊感」(1972年)
家族の休暇をふいにして――蝶を追う人【バタフライハンター】
・「ピレネー東部とアリエージュ県の鱗翅目についての覚え書き」(1931年)・「Lycaeides Sublivens Nab. のメス」(1952年)
私のもっともすぐれた英語の本――『ロリータ』騒動
・「ロシア語版『ロリータ』へのあとがき」(1965年)・「『ロリータ』とジロディアス氏」(1967年)
摩天楼のように伸びた脚注を――翻訳という闘い
・「翻訳の問題――『オネーギン』を英語に」(1955年)・「奴隷の道」(1959年)
・「翻案について」(1969年)
私が芸術に完全降伏の念を覚えたのは――ナボコフとの夕べ
・「一九四九年五月七日「著者による『詩と解説』の夕べ」のための覚え書き」(1949年)・「ナボコフ氏受賞スピーチ」(1975年)
おまけ
・「ナボコフ風たまご料理」(1972年)
以下に若干の解説を。
錫でできた星――ロシアへの郷愁
・「ロシアの川」(1924年)・「ケンブリッジ」(1921年)
・「笑いと夢」(1923年)
このセクションでは亡命の初期、まだ小説家として本格的にスタートする以前の、ケンブリッジ・ベルリン時代に書かれたものを集めました。
森羅万象は戯れている――遊ぶナボコフ
・「塗られた木」(1923年)・「ブライテンシュトレーターVSパオリーノ」(1925年)
・「E・A・ズノスコ=ブロフスキー『カパブランカとアリョーヒン』、パリ」(1927年)
・「オペラについて」(1928年)
ここでは一九二〇年代に書かれた散文のなかから、ボクシングや、チェス、オペラなど「遊び」にかかわるものを集めてみました。亡命者というと悲惨な、暗い生活をイメージしがちですが、ここで描かれているのはどちらかと言えば、ワイマール文化華やかなりしベルリンを闊歩し、最先端の流行を吸収するひとりの若者の姿です。
流謫の奇跡と帰還の奇跡を信じて――亡命ロシア文壇の寵児、V・シーリン
・「一般化について」(1926年)・「ソヴィエト作家たちの窮状について少々、およびその原因を特定する試み」(1926年)
・「美徳の栄え」(1930年)
・「万人が知るべきものとは」(1931年)
このセクションでは、ナボコフがロシア語作家として地歩を固める過程で発表された文章や講演をあつめてみました。一番ナボコフが勢いがあったときです。かなり政治的なものも多いのに驚かれると思います。
ロシア文学のヨーロッパ時代の終わり――亡命文学の送り人
・「Ju・I・アイヘンヴァリドを追悼して」(1928年)・「A・O・フォンダミンスキー夫人を追悼して」(1937年)
・「ホダセーヴィチについて」(1939年)
・「定義」(1940年)
・「I・V・ゲッセンを追悼して」(1943年)
・「『向こう岸』へのまえがき」(1954年)
このセクションでは、主に30年代後半に書かれた追悼文を集めてみました。お世話になった亡命知識人、出版人の死は、ナボコフのロシア語時代の終わりがせまっていた事実を示しています。
英語の母音はレモン、ロシア語の母音はオレンジ――駆け出し教師時代
・「ロシア語学習について」(1945年)・「ロシア学のカリキュラムにおける位置」(1948年)
ここでは1940年にアメリカに到着して以降、ロシア語教師としての働きぶりを伝えるエッセイ二本を訳出しました。
張りつめているように見えて、だるだるに弛みきっている――口うるさい書評家
・「イヴァン・ブーニン『選詩集』現代雑記社、パリ」(1929年)・「『現代雑記』三七号、一九二九年」(1929年)
・「ディアギレフと弟子」(1940年)
・「サルトルの初挑戦」(1949年)
ナボコフがロシア語時代、英語時代をつうじて書いた書評を集めればそれだけで一冊、本が編めるでしょう。ここでは比較的有名な作者のものや重要なものを集めました。サルトルの『嘔吐』書評は、サルトル自身のナボコフ『絶望』書評への意趣返しだったのでしょうか?
文学講義補講 第一部 ロシア文学編
・「プーシキン、あるいは真実と真実らしいもの」(1937年)・「決闘の技法」(1964年)
・「レールモントフ『現代の英雄』訳者まえがき」(1958年)
ナボコフがした講演や評論を「文学講義補講」というかたちでまとめました。ここでは『ロシア文学講義』に含まれていないプーシキン、レールモントフについてのものを。「プーシキン、あるいは真実と真実らしいもの」は、フランス語で書かれたものです。
文学講義補講 第二部 劇作・創作講座編
・「劇作」(1941年)・「悲劇の悲劇」(1941年)
・「霊感」(1972年)
こちらはナボコフの演劇論・創作論を。「霊感」ではナボコフが選ぶアメリカの傑作短編小説が。
家族の休暇をふいにして――蝶を追う人【バタフライハンター】
・「ピレネー東部とアリエージュ県の鱗翅目についての覚え書き」(1931年)・「Lycaeides Sublivens Nab. のメス」(1952年)
ナボコフが鱗翅目(チョウ・ガ)の研究者だったことは最近注目されるようになりました。このセクションでは比較的読みやすい蝶の採集記を二本、訳出してみました。「ピレネー…」のほうは百種類以上(!)の蝶・蛾がでてきます。この翻訳では、なんと荒木崇先生にお願いして、その学名・和名の全対照表をつけていただきました。これはかなりすごいです。
私のもっともすぐれた英語の本――『ロリータ』騒動
・「ロシア語版『ロリータ』へのあとがき」(1965年)・「『ロリータ』とジロディアス氏」(1967年)
『ロリータ』のヒットはナボコフの生活を一変させ、最終的にアメリカの大学を離れ、スイスに移住することになりました。ここではその経緯を語った二本のエッセイをおさめました。
摩天楼のように伸びた脚注を――翻訳という闘い
・「翻訳の問題――『オネーギン』を英語に」(1955年)・「奴隷の道」(1959年)
・「翻案について」(1969年)
ナボコフの英語エッセイには翻訳の話題が多く出てきますが、ここでは翻訳を主題にあつかったエッセイを三本集めました。「摩天楼のように伸びた脚注を――」は、「翻訳の問題」の最後、
「私はおびただしい脚注を添えた翻訳を、摩天楼の如く頁の最上部にまで達せんと伸びた、注釈と永遠の狭間に原詩のただ一行のみを輝かせている脚注を求めているのだ。」
からとっています。脚注がページの下からせりあがってきて、本文が一行だけになるイメージですね。
私が芸術に完全降伏の念を覚えたのは――ナボコフとの夕べ
・「一九四九年五月七日「著者による『詩と解説』の夕べ」のための覚え書き」(1949年)・「ナボコフ氏受賞スピーチ」(1975年)
ナボコフが残した朗読会用メモ、授賞式でのスピーチ原稿から二本、訳出しました。
おまけ
・「ナボコフ風たまご料理」(1972年)
掲載を拒否されたレシピです。