『図書新聞』3454号、2020年7月4日。
佐藤=ロスベアグ・ナナ『学問としての翻訳』みすず書房
現在、ロンドン大学で翻訳研究【トランスレーション・スタディーズ】を講じる著者が、たまたま手にとったという雑誌――『季刊翻訳』(1973―75)――と、『翻訳の世界』(1976―2000)を素材にして、タイトルにもあるような「学問としての翻訳」を日本に探り出そうとする試みである。『翻訳の世界』は一部では伝説的な雑誌だが、短命に終わった『季刊翻訳』をその「前史」的に位置づけたことや、数多くのインタビューを通じて当時の風潮や裏話を探り出している点は興味深い。
しかし、著者自身も薄々そう感じているのではないかと思うのだが、「学問としての翻訳」を剔抉しようという試み自体はやや消化不良に終わったと言わざるを得ない。理由として、二誌には現在の翻訳研究に通じるような議論の片鱗はあるが、体系的な翻訳研究が紹介された痕跡や、日本独自の翻訳論を確立しようというようなムーヴメントに乏しいのだ。
著者は冒頭で「なぜトランスレーション・スタディーズは日本に根づかないのだろうか」という問いを掲げるのだが、それに答えるためには日本における翻訳の状況をもう少し整理する必要がある。
欧米での翻訳者の地位の低さとは裏腹に、日本では、大学の教員が訳者を務めることが多かった。そもそもある時期まで人文系の学者の仕事は、欧米の文献の紹介が主な部分を占めていたのだ。そこに翻訳を介してさまざまな権力が発生する余地があったと言える。その立場からは翻訳は単純にわかりやすいものであるよりは、難渋なほうが学問の秘儀性を強調するうえで望ましくさえもあったのだ。
そのため、日本における翻訳論争は――『翻訳の世界』に連載された別宮貞徳の「欠陥翻訳時評」がまさにそうだが――翻訳に関する普遍的な真理を(共同で)考究するというよりは、訳文の権威性を剥ぎとるという意味合いをもっていた。裏を返せば、翻訳批判は一種禁忌でもあったということだ。これは、二一世紀の現在でも基本的には変わっていないと言える。客観的な議論が進まなかった一因である。
もうひとつ、二誌が翻訳研究を体系的に発展させられなかった理由も、社会的な要因を考慮すべきだろう。本書の中でも編集者の丸山哲郎が述懐しているが、私なりに情報を加えつつその理由をまとめると以下のようになる。
七十年代から八十年代は大衆教養主義が通過したあとで、さまざまな学問が「カルチャー」化して、義務的なものというよりは趣味嗜好の一環として消費されるようになった時代だ。ニューアカブームによる学者のタレント化もそれを後押しした。その中で一部の才覚のある編集者(本書には登場しないが、村上春樹の翻訳家としての大成に寄与したと思われる安原顕の仕事も忘れることはできない)は、商業誌を舞台に若手の有望株をプロデュースしたのである。しかし九十年代後半以降に出版不況が深刻化すると、そのような場は急速に失われていった(実際『翻訳の世界』も実務翻訳家養成のための情報誌になった)。翻訳研究は基幹大学にポストを確保できず、翻訳を専門に扱う学会もまだなかったため、議論をフィードバックする場に乏しかったのである(ところで近年、某旧帝国大学に「翻訳論」の公募が出たが、採用されたのは翻訳研究の業績がほとんどない英文学者だったことがあった)。
またこの時期、女性の大卒者は顕著に増加したが、その出身学科の多くは英文科だった。彼女らが専門性を生かして、在宅でできる仕事と言えば翻訳ぐらいだったのである。『翻訳の世界』の版元のバベルによる翻訳教育事業は、明白にそのような女性をターゲットにしていた。であれば、抽象的な翻訳論議よりも実践的な語学講座に力点が移っていったのも当然だろう。
欧米の翻訳研究【トランスレーション・スタディーズ】を特権視しすぎるべきではないということに、著者も十分意識的ではある(個人的にも、日本は漢文訓読の問題など日本にはまだ西欧で吟味されていない翻訳の宝庫であると感じる)。他方で、たとえば本書で欧米人の人名はアルファベット表記で、カタカナの音訳が掲載されていない。これは論文ならいいだろうが、日本で市販される人文書のスタイルとしては疑問である。ましてや本書は翻訳についての本なのである。また、文体がどことなく翻訳調のところがあり、「おわりに」のようなくだけた調子で全体が書かれていたらより魅力的な書物になったろう。こんなことを述べるのは、(欧米の学術誌/日本の商業誌というコントラスト同様)日本には欧米のような専門家のピアレビューをへて刊行される専門書の風習がないかわりに、より一般の人も手にとりやすい人文書、教養書の歴史があるからだ(本書の版元はその老舗である)。日本で翻訳研究の学術的整備が進む一方、その成果をどう「翻訳」して社会に提示するのかも問われている。
この本も正直、あまり広くは推薦できない本でしたね・・・。