訳すのは「私」ブログ

書いたもの、訳したもの、いただいたものなど(ときどき記事)

YOUTUBEで見られるナボコフのインタヴュー動画①

ナボコフのインタヴューの中には動画で公開され、閲覧できるものもあります。

備忘のため、研究のため、ブログにまとめてみることにしました。

 

 

埋め込み不能のため、以下からご覧ください。

https://youtu.be/V8OwyqvSh2g?si=WqMzxPD3KW33b4Ut

 

研究者のマキシム・シュライヤー先生がyoutubeで公開しているもので、

ロバート・ヒューズによる1965年のインタヴューです。

 

白黒の映像ですが、モントルーでのナボコフの暮らしの一端がうかがえます。

キヨスクで新聞を購入する姿や、『ロリータ』冒頭の朗読シーンなど。

【訂正】フランコ・モレッティ『遠読――<世界文学システム>への挑戦[新装版]』みすず書房

 

p. 75

四大陸にまたがって二百年にわたる二〇を超す別々の学術研究で

四大陸にまたがって二百年にわたる文学作品、その二〇を超す別々の学術研究で

 

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【書評】ナボコフ・コレクション全五冊(新潮社)

 「既成概念の枠を広げ新しい読者層を開拓する野心的な試み ナボコフ・コレクション全五冊(新潮社)」『週刊読書人』2017年12月8日。

 

 作家ウラジーミル・ナボコフの没後四十周年を祝うかのように、二〇一七年一〇月、若島正沼野充義監修による「ナボコフ・コレクション」全五巻の刊行を新潮社がスタートさせた。若島訳の『アーダ』も早川書房より今秋出版されたばかりとあって、一躍「新訳ブーム」が訪れたかのようだ。

 

 しかし、このブームは今にはじまったものではない。欧米で大部の伝記が刊行され、ナボコフが正典化される中で、日本でも九十年代の終わりに日本ナボコフ協会が設立され、英露文学者の協同・組織化が行われた。その「ナボコフルネサンス」を、実質的に牽引してきたのが今回のコレクションの監修にあたった二人だった。英文の超精読を通して作品内のしかけを発見していく若島と、ロシア性に軸を置きつつその文学を広く亡命や多言語主義の枠組みでとらえようとする沼野は互いに協調しながらこの二十年間普及に努め、学界を主導してきた。

 

 若島訳『ロリータ』と沼野訳『賜物』を軸に据え、かつ全体にロシア性が強調された今回のコレクションは、その九十年代からはじまるムーヴメントのひとつの到達点だろう。品切れだったものも含めて、多くの作品が清新な訳文で読者の手に入るようになるという点で、本コレクションの意義は強調してもしきれないものであることは間違いない。しかしここでは訳者の一人という立場を離れて、一研究者として傍からラインナップを眺めてみた際の所感を書きとめておく。

 

 今回のコレクションでは、「ロシア語版からの初訳」ということが謳われている。しかし、ナボコフは自分の小説を後に自らの手で英訳し、その際に様々な加筆・削除を行った。その意味では、ロシア語版からの翻訳が日本語読者にとって最善かどうかは必ずしも自明ではない。英語版では刊行当時の事情に疎い外国読者への説明が行われていることを考えれば、話はむしろ逆のこともあるだろう。また『ロリータ』にはナボコフ自身の手によるロシア語版が存在するが、これだけは英語からの訳のままだ。

 

 本来なら翻訳を意義づけるのは批評・研究の役割だ。翻訳と批評とは外国文学受容の両輪だが、日本における受容は五九年の『ロリータ』初訳から常に翻訳が先行してきた。直近十年間、ナボコフについての単著がほぼ書かれていない状況にあることを思えば、今後コレクションを意義づける研究が訳者陣の手によって一般の目に触れる形で公刊されるべきだが、現段階における新訳の意義という観点から見た場合、最注目なのは、若島・沼野とは違う角度である亡命ロシア文化史的な方向から実証的な研究を長年続け、著書『ロシア人たちのベルリン』でそれを披露した諫早勇一による『キング、クイーン、ジャック』訳だろう。

 

 翻訳に対する研究の相対的な遅れという面では、二十一世紀以降、爆発的に増加した欧米の研究のキャッチアップを今後どうするかも気にかかる。欧米の学会で「ナボコフはロシアの作家だ」などと言っても、すでに常識的すぎて誰にも相手にされない。研究の潮流はロシア語作家でもあったことを前提にした上での、新資料も含めた事実の発掘、詩や演劇など小説以外のジャンル、出版文化などのコンテクスト、科学者としてのナボコフに移っている。そういった意味ではむしろ九十年代的なナボコフ観から離れたところ、本邦初訳となる「ワルツの発明」(沼野訳)「事件」(毛利公美訳)といった従来評価の低かった戯曲、『賜物』の付録として執筆されながら生前は公刊されなかった「父の蝶」(小西昌隆訳)といった作品が、新しい方向性として注目される。

 

 英米文学者とロシア文学者の交流を目的として設立されたナボコフ協会とその後の枠組みは、『ロリータ』の英語作家としてしか知られていなかったナボコフを研究する上で、ロシア文学側のプレゼンスを高める上で有効だった。他方それぞれの専門分野への尊重がなされた結果、かえって個々人の活動が窮屈になっている面もあるのではないか。今回のコレクションでも、若島が『賜物』を英語版から翻訳し、沼野が『ロリータ』をロシア語版から翻訳してもよかった。こう書くと、何を愚かなという誹りを受けそうだが、ナボコフがやったことはまさにそうした(むしろ百倍大胆な)ことだったのだ。その九十年代的な分業から外れる越境的な仕事という点では、英語作品『見てごらん道化師を!』の注を担当した若手研究者後藤篤による『魅惑者』のロシア語原典からの訳(この作品に限っては作者の手が入っていない英訳からの重訳しかなかった)は注目だろう。

 

 本コレクションのラインナップを眺めたとき改めて思わされるのは、『ロリータ』という作品の強力さだ。この世界文学史上稀に見る大ヒット商品があるがゆえ、ナボコフは翻訳・再翻訳の機会に恵まれてきた。逆に言えば、他に優れた作品があっても一般へのプロモーション上は「あの『ロリータ』の」という枕詞を外すことはできない。それはナボコフ自身が商業的な成功と引き換えに、自ら引き受けることを選んだ重荷だった。その意味では九十年代はおろか六十年代から状況は変わっていないようにすら思えるが、今回のコレクションも、少しでも既成概念の枠を広げ、新しい読者層を開拓しようという編集側の野心的な試みとして出版文化史の観点からは評価されるだろう。

 

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【書評】コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(鴻巣友季子・竹内要江・木下眞穂・ラッシャー貴子・手嶋由美子・井口富美子訳、左右社)

日本経済新聞』5月23日

 

コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(鴻巣友季子・竹内要江・木下眞穂・ラッシャー貴子・手嶋由美子・井口富美子訳、左右社)

 

メリアム=ウェブスター社と言えば、米国を代表する辞書の老舗として知られる。本書はそこで編集者として長年勤務した著者による辞書と言葉をめぐるエッセイだ。そう書くと、単語についての衒学的な蘊蓄や、言語学の権威の教授との心温まる交流話を期待する向きもいるかもしれない。しかし期待はいい意味で裏切られる。

 

辞書を編纂する立場には、一般に二通りがあるとされる。ひとつは、辞書は「正しい」言葉や用法(だけ)を載せる規範であるべきという考え方。それに対して、どんなものであれありのままの言葉や用法を記そうとする立場がある。

 

ウェブスター社のスタンスも、前者から後者へと変化してきた歴史がある。一九六一年に刊行された『ウェブスター新国際辞典』第三版は膨大な新語や非標準用法を収録して内容を一新し、一部識者から批判された。

 

実際、著者も述べるように、辞書は過去、「裕福で、教育を受けた、年配の白人の「都会人[の男性]」」によって編まれてきた。しかし言葉は一部の階層の人間のものではないから、これは変える必要がある。

 

そして著者が頭を悩ませるのも、辞書に黒人英語や方言を採録するべきか? 結婚という語の語釈に同性婚を含めるべきか? といったことだ。これらの問いに著者(とウェブスター社)はイエスと言うが、問題はそう思わない人間もいるということなのだ。

 

こう考えてみると、辞書作りとは高度に政治的な営みだとわかる。世間の人々は現在もいまだに辞書に規範としての役割を求め続けていて、自分の気に入らない用法や単語が掲載されているとネットニュースで知るや、何百通という抗議のメールを送ってくる。例文を書くのも一苦労で、「車を修理する」という文一つとっても、主語が常に「彼」であれば、ある種の偏見を助長しているととられかなない。現代において辞書を編むとは、火中の栗を拾うも同然の難事なのだ。

 

しかしこのようなある意味で生臭い話を、著者はユーモアを交えて実例を引きつつ語ってくれる。辞書こそが私たちの生活と密接に結びついたアクチュアルな読み物だと気づかせてくれるのだ。

 

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【書評】佐藤=ロスベアグ・ナナ『学問としての翻訳』みすず書房

 『図書新聞』3454号、2020年7月4日。

 

 

佐藤=ロスベアグ・ナナ『学問としての翻訳』みすず書房

 

 現在、ロンドン大学で翻訳研究【トランスレーション・スタディーズ】を講じる著者が、たまたま手にとったという雑誌――『季刊翻訳』(1973―75)――と、『翻訳の世界』(1976―2000)を素材にして、タイトルにもあるような「学問としての翻訳」を日本に探り出そうとする試みである。『翻訳の世界』は一部では伝説的な雑誌だが、短命に終わった『季刊翻訳』をその「前史」的に位置づけたことや、数多くのインタビューを通じて当時の風潮や裏話を探り出している点は興味深い。


 しかし、著者自身も薄々そう感じているのではないかと思うのだが、「学問としての翻訳」を剔抉しようという試み自体はやや消化不良に終わったと言わざるを得ない。理由として、二誌には現在の翻訳研究に通じるような議論の片鱗はあるが、体系的な翻訳研究が紹介された痕跡や、日本独自の翻訳論を確立しようというようなムーヴメントに乏しいのだ。


 著者は冒頭で「なぜトランスレーション・スタディーズは日本に根づかないのだろうか」という問いを掲げるのだが、それに答えるためには日本における翻訳の状況をもう少し整理する必要がある。


 欧米での翻訳者の地位の低さとは裏腹に、日本では、大学の教員が訳者を務めることが多かった。そもそもある時期まで人文系の学者の仕事は、欧米の文献の紹介が主な部分を占めていたのだ。そこに翻訳を介してさまざまな権力が発生する余地があったと言える。その立場からは翻訳は単純にわかりやすいものであるよりは、難渋なほうが学問の秘儀性を強調するうえで望ましくさえもあったのだ。


 そのため、日本における翻訳論争は――『翻訳の世界』に連載された別宮貞徳の「欠陥翻訳時評」がまさにそうだが――翻訳に関する普遍的な真理を(共同で)考究するというよりは、訳文の権威性を剥ぎとるという意味合いをもっていた。裏を返せば、翻訳批判は一種禁忌でもあったということだ。これは、二一世紀の現在でも基本的には変わっていないと言える。客観的な議論が進まなかった一因である。


 もうひとつ、二誌が翻訳研究を体系的に発展させられなかった理由も、社会的な要因を考慮すべきだろう。本書の中でも編集者の丸山哲郎が述懐しているが、私なりに情報を加えつつその理由をまとめると以下のようになる。


 七十年代から八十年代は大衆教養主義が通過したあとで、さまざまな学問が「カルチャー」化して、義務的なものというよりは趣味嗜好の一環として消費されるようになった時代だ。ニューアカブームによる学者のタレント化もそれを後押しした。その中で一部の才覚のある編集者(本書には登場しないが、村上春樹の翻訳家としての大成に寄与したと思われる安原顕の仕事も忘れることはできない)は、商業誌を舞台に若手の有望株をプロデュースしたのである。しかし九十年代後半以降に出版不況が深刻化すると、そのような場は急速に失われていった(実際『翻訳の世界』も実務翻訳家養成のための情報誌になった)。翻訳研究は基幹大学にポストを確保できず、翻訳を専門に扱う学会もまだなかったため、議論をフィードバックする場に乏しかったのである(ところで近年、某旧帝国大学に「翻訳論」の公募が出たが、採用されたのは翻訳研究の業績がほとんどない英文学者だったことがあった)。


 またこの時期、女性の大卒者は顕著に増加したが、その出身学科の多くは英文科だった。彼女らが専門性を生かして、在宅でできる仕事と言えば翻訳ぐらいだったのである。『翻訳の世界』の版元のバベルによる翻訳教育事業は、明白にそのような女性をターゲットにしていた。であれば、抽象的な翻訳論議よりも実践的な語学講座に力点が移っていったのも当然だろう。


 欧米の翻訳研究【トランスレーション・スタディーズ】を特権視しすぎるべきではないということに、著者も十分意識的ではある(個人的にも、日本は漢文訓読の問題など日本にはまだ西欧で吟味されていない翻訳の宝庫であると感じる)。他方で、たとえば本書で欧米人の人名はアルファベット表記で、カタカナの音訳が掲載されていない。これは論文ならいいだろうが、日本で市販される人文書のスタイルとしては疑問である。ましてや本書は翻訳についての本なのである。また、文体がどことなく翻訳調のところがあり、「おわりに」のようなくだけた調子で全体が書かれていたらより魅力的な書物になったろう。こんなことを述べるのは、(欧米の学術誌/日本の商業誌というコントラスト同様)日本には欧米のような専門家のピアレビューをへて刊行される専門書の風習がないかわりに、より一般の人も手にとりやすい人文書、教養書の歴史があるからだ(本書の版元はその老舗である)。日本で翻訳研究の学術的整備が進む一方、その成果をどう「翻訳」して社会に提示するのかも問われている。

 

 

 

この本も正直、あまり広くは推薦できない本でしたね・・・。

【書評】モーシン・ハミッド『西への出口』(藤井光訳、新潮社)

 『日経新聞』2020年2月15日号

 

モーシン・ハミッド『西への出口』(藤井光訳、新潮社)


 殆どの読者にとって移民とは、新聞やテレビニュースの中の出来事だろう。同情はすれど、自分がそうなるとは想像だにしない。


 パキスタン出身の英語作家モーシン・ハミッドのよる本作は、その幻想を容易く破壊する。


 物語の中心は、一組の男女。広告代理店と保険会社に勤めるサイードとナディアは、どこにでもいるような都市生活者のカップルだ。二人の住む場所が、イスラム圏ということ以外ははっきりしないのも、その偏在性を際立たせている。


 しかし武装勢力が街に侵入すると、日常は一変する。肉親が殺され、仕事は奪われ、生命の危機が日に日に迫る。


 二人は代理人【ルビ:エージェント】に金を払い、不思議な「扉」を通って故郷を後にする。そこを抜けると一瞬にして「西」に辿り着くのだ。


 扉を抜けて、ミコノス島、ロンドンへと、膨大な移民たちに紛れて二人は脱出する。しかし安住の地はなかなか見つからず、いつの間にか自分たちが、脅かされる側から、現地住人を脅かす側へと変貌していることに気づく。


 二人もまた、排外主義者の暴力の対象になる。脅かされ、脅かす世界―主体と客体の一体化は、直接的な暴力の次元に留まらない。スマートフォンをもって移動する二人は、張り巡らされたネット回線を使って常時情報を仕入れている。移民はニュースにとりあげられる客体でありながら、それを見る主体でもある。


 本書が示すのは、タイトルに反して、高度に情報化が進んだ社会では「西/第三世界」「見る/見られる」のような二項対立は存在しないという事実だ。


 印象的なのは、時折挟み込まれる「遠く離れた場所」の描写だ。シドニー、新宿、ウィーン…どこからともなく扉が開き、移民が出現する。初めのうち無理解が横行していたのが、小説の後半では愛を語り合うもの、西から脱出するものも描かれるようになる。著者が提示するのは混然一体となった世界のヴィジョンだ。それは暴力というよりは理解と愛であって、サイードとナディアが到達するものだ。


 本書の原本はメキシコとの間に壁を築くと公約した、トランプが米国大統領に選ばれた二〇一七年に刊行された。しかしどんな高い壁も、全世界で二億七千万人に達する移民の流れを押しとどめることはできない。

 

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【書評】ノラ・イクステナ『ソビエト・ミルク――ラトヴィア母娘の記憶』(黒沢歩訳、新評論)

 『日経新聞』2019年12月7日

 

ノラ・イクステナ『ソビエト・ミルク――ラトヴィア母娘の記憶』(黒沢歩訳、新評論

 

 

 本作は、バルト三国の一国、ラトビアで刊行されてベストセラーになった。ラトビアは長年にわたって大国に翻弄されてきた。第一次大戦中に悲願の独立を果たしたものの、第二次世界大戦中にソビエトに占領され、連邦内の一共和国になった。小説は四四年生まれの母と六九年生まれの娘の語りが交互に繰り返される形式をとるが、そこには九一年の再独立に至るまでの半世紀にわたるラトヴィアの歴史が織りこまれている。

 

 母はソ連に従順な母親と義理の父親に反発して医師になり、猛烈に働く。煙草や酒に依存しながら仕事に没頭する母は、行きずりの男との間に娘をもうけるが、自分には母親の資格がないと思いこみ、授乳も拒否する。ここにはソビエト期、社会主義の名のもとに女性も男性並みに働くことが求められながら、家庭での役割は変わらなかった事情が反映されている。

 

 しかし母はある事件を起こし、地方の救急センターに移らざるをえなくなる。周囲からも白眼視される。ソビエトへの忠誠心が常に求められ、ロシア語教育が重視された時代。通りの名前もラトビア人からキロフ、ミチュリン、ゴーリキーのようなソビエトの偉人に改名されてしまっている。それでもラトビア文学に触れることで、娘はラトビア人としての心を取り戻していく。母も仕事の傍ら、「禁書」だったオーウェル『一九八四年』を熱心に読み、心をつなぎとめようとする。ここに織りこまれているのは一国の文学史でもある。

 

 魂の自由を求める母の物語は『一九八四年』と同じように破滅的な結末を迎えるが、娘(明らかに著者自身が重ねられている)は、自分が親であるかのように母を庇護しようとする。母とは違って、娘が生きるのは傷ついた世代への赦しと民族の再生という物語だ。

 

 ラトビア語話者は二百万人いる人口の六割程度に過ぎないにもかかわらず、本書の売り上げは五万部を超え、英語をはじめ各国語に翻訳されて流通している。現在のラトビアはEUの加盟国となり、ソビエトだった過去とは決別したかのように映る。本作はその新しいラトビアの、ナショナル・アイデンティティを定義しつつも、同時にナショナル・プライドを満たす「国民/世界文学」となりうる小説だろう。

 

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