『日経新聞』2020年2月15日号
モーシン・ハミッド『西への出口』(藤井光訳、新潮社)
殆どの読者にとって移民とは、新聞やテレビニュースの中の出来事だろう。同情はすれど、自分がそうなるとは想像だにしない。
パキスタン出身の英語作家モーシン・ハミッドのよる本作は、その幻想を容易く破壊する。
物語の中心は、一組の男女。広告代理店と保険会社に勤めるサイードとナディアは、どこにでもいるような都市生活者のカップルだ。二人の住む場所が、イスラム圏ということ以外ははっきりしないのも、その偏在性を際立たせている。
しかし武装勢力が街に侵入すると、日常は一変する。肉親が殺され、仕事は奪われ、生命の危機が日に日に迫る。
二人は代理人【ルビ:エージェント】に金を払い、不思議な「扉」を通って故郷を後にする。そこを抜けると一瞬にして「西」に辿り着くのだ。
扉を抜けて、ミコノス島、ロンドンへと、膨大な移民たちに紛れて二人は脱出する。しかし安住の地はなかなか見つからず、いつの間にか自分たちが、脅かされる側から、現地住人を脅かす側へと変貌していることに気づく。
二人もまた、排外主義者の暴力の対象になる。脅かされ、脅かす世界―主体と客体の一体化は、直接的な暴力の次元に留まらない。スマートフォンをもって移動する二人は、張り巡らされたネット回線を使って常時情報を仕入れている。移民はニュースにとりあげられる客体でありながら、それを見る主体でもある。
本書が示すのは、タイトルに反して、高度に情報化が進んだ社会では「西/第三世界」「見る/見られる」のような二項対立は存在しないという事実だ。
印象的なのは、時折挟み込まれる「遠く離れた場所」の描写だ。シドニー、新宿、ウィーン…どこからともなく扉が開き、移民が出現する。初めのうち無理解が横行していたのが、小説の後半では愛を語り合うもの、西から脱出するものも描かれるようになる。著者が提示するのは混然一体となった世界のヴィジョンだ。それは暴力というよりは理解と愛であって、サイードとナディアが到達するものだ。
本書の原本はメキシコとの間に壁を築くと公約した、トランプが米国大統領に選ばれた二〇一七年に刊行された。しかしどんな高い壁も、全世界で二億七千万人に達する移民の流れを押しとどめることはできない。