訳すのは「私」ブログ

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メモ:タゴールの場合

ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)はベンガル語詩人でしたが、みずから英訳した詩集『ギタンジャリ』をイェーツに高く評価され、ノーベル賞を贈られました(1913)。

最近出版された『ギタンジャリ』は英語との対訳詩集。

タゴール詩集 ギタンジャリ―歌のささげもの

タゴール詩集 ギタンジャリ―歌のささげもの

上の訳書の「訳者あとがき」によれば、

平たくいうと、タゴールの詩の翻訳は、英語による自作のリメイクである。幸いなことに、簡素な英語の散文訳は、音楽性に富んだベンガル語の原典を大胆に書きかえて再創造を試みる過程で、異なる言語に変換することができる普遍的な詩の器をもたらした。

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タゴール自身の翻訳についての言葉がいくつか紹介されていて参考になります。

<わたしの英語訳は、原典と同じものではないですよ。国によって、それぞれの表現のかたちがあります。だから、わたしは自分の著作を翻訳するときに、新しいかたちと、そのときの新しい考えを発見し、それは結局、ほぼ完全に新しい作品になっている。発想の根本は同じものですが、外観は変わります。>
ポートランド・プレス」一九一六年一〇月二三日(ワシントン)

<わたしの詩の英語版は逐語訳ではありません。詩はある言語から別の言語へと変換されるとき、新しい質と新しい精神を獲得して、思想は新しく生まれ変わるのです。>
「イヴニング・ポスト」一九一六年一二月九日(ニューヨーク)

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実際、訳者はベンガル語からの邦訳(渡辺照宏訳)と自分の英訳からの邦訳をくらべていますが、たしかにかなり違っています。前者は装飾的でこれぞ詩、という訳文。後者は行わけもされていないシンプルな訳文。


ただ、おそらくこの訳者自身は(自信満々なわりに)ベンガル語の原典を見ていないと思われます。それならそう書くのがフェアなのではないでしょうか。


そして渡辺照宏訳はおよそ半世紀前に出た訳ということを割り引いて考えなくてはならないでしょう。


訳者は自分がタゴールの「英語の独特な擬古文」を「日頃なじみのない古雅な日本語に訳すのではなく、水のように透き通った現代語に置き換えていくことに、ひたすら心血をそそいだ」(155)らしいのですが、であればベンガル語からの訳と英語からの訳の差は訳者の好みの差がある程度反映されている、と考えなくてはならないでしょう。


自分で差を大きくしておいて、「これだけ違っているでしょ」というのはどうなんでしょうね。


それはさておき、タゴールの自己翻訳はこれまで見てきた多くの自己翻訳がおもにヨーロッパ語間でおこなわれていたことをふまえると、日本語とヨーロッパ語などの自己翻訳を考える上でも参考になりそうです。


[追記]
Jan HokensonとMarcella Munsonの『バイリンガルテクスト』でもタゴールの自己翻訳についてとりあげられています。

それによると、タゴールベンガル語ではむしろ前衛的な詩人だったのですが、英語に自分の詩を訳すさいには敬虔な詩だけ厳選し、堅苦しいエドワード朝の英語に訳したとのこと。

それによりタゴールは自分自身を「コロニアル・ステレオタイプ」にあてはめ、大戦前夜の物質主義的な西洋に東方よりとどいた賢人の声という役割をひきうけ、それによってノーベル賞を受賞した、と。

しかしそのまやかしの正調英語によって、ベンガル語固有の表現は失われてしまった。

晩年になって、タゴール自身そのことを「自分自身」と自分の「風土と文化」のミューズにたいして不公正だったと後悔したと書かれています。169-170

The Bilingual Text: History and Theory of Literary Self-Translation

The Bilingual Text: History and Theory of Literary Self-Translation

やはりこうしたことに無自覚のまま、上記のような姿勢でタゴールのテクストを翻訳すること自体、微妙な問題をはらんでいると思われます。