前々回、タゴールについて触れましたが、そのタゴールとも交流があり、アメリカで英語詩人「ヨネ・ノグチ」として活動し、戦中は愛国的な詩を書いたことで知られる「二重国籍者」こと野口米次郎について、最近出た大部のモノグラフを読んでみました。
- 作者: 堀まどか
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2012/02/28
- メディア: 単行本
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これによると野口の作品にも自己翻訳が少なくないことがわかります。
以下、関連するところを書き抜いてみました。
・詩だけでなく、評論"Whitmanism and its Failure"(発表は1919)も「米文壇におけるホイツトマニズムの失敗」(1918)として訳出している。
・講演"The Spirit of Japanese Poetry"(1914)を『日本詩歌論』(1915)として翻訳している。この一部は『蕉門俳人論』(1926)でも訳されているが、「時代の推移によって翻訳の用語が変化しているとともに、なによりも野口の日本語がこなれて、意味の通る表現になっていく」(502)。
・"Lines"(The Pilgrimage)を「私は太陽を崇拜する」(『表象抒情詩集』(1925-27))として訳出していますが、「英語詩と日本語詩とでは、連の構成のみならず、当然のことながらそれぞれの語のニュアンスなども異なっている。それぞれの言語に合わせて詩が組み立てられており、それぞれに詩としての雰囲気、面白さがある。二つを並べて読める視点からは、単なる翻訳という関係を越えて、ズレを含んだ二つのテクストから成る一つの重層的な作品と捉えることも、現在ならばできるかもしれない」(286)。
・オリジナルの日本語詩集(ただし2,3は最初に英語で書いた詩があったようだ)『沈黙の血汐』(1922)で、野口は「私のこれまでの邦語詩は自分の書いた英詩の翻訳であったり又その延長であったが、本詩集に於て私が真実な意味で、所謂百尺竿頭一歩を進めたというならば、私が表象詩の象牙の塔を出てて人生の街頭詩に立つに至ったからである。(中略)草稿詩へぶっ附けに邦語で書いたのは本詩集で始まっている」(279)述べていますが、この詩集は英訳もされたようです。ただし1945年の空襲で焼失したといいます(282)。
・インド国民軍の士気高揚のために作られた「デリー行進」(1943)は、チャンドラ・ボースが感激して、弟子・尾島庄太郎と野口が "Marching to Delhi" として共訳したらしい。しかし、「両者を比べてみると、この日本語詩と英語詩では内容的に異なる部分がかなり多い。英訳の過程でおのずと新しく英語で書き下ろす形となったのか、日英の各詩を受容する対称に合わせて意図的に構成も内容も変更したのか」(398-400)。
・「ラジオ放送のために日英両言語で詩作されたものもあ」り、「死地に乗入る二千数百」は "TWO THOUSAND IN THE VALLEY OF DEATH"として訳されたが、「過激な調子が、英詩になると失われており」、「東洋対西洋の対立構造に抽象化されている」(420)。
・芭蕉の句を受けて作った英詩"To the Cicada"をのちに邦訳している(「老いた魂の何といふ苦悶であらう、……」in『林檎一つ落つ』/『表象抒情詩集』)。「<老いた魂>という個の悲劇にテーマの中心を置き、より人間的な現実感を蝉の声の中に聴いている」(326)。
・『八紘頌一百篇』(1944)収録の「死の褥に横たはる詩」の英訳が『ニッポン・タイムズ』に"Lying on a Death Bed"(1946)として寄稿されたという。この詩の差をさして、著者は「一九四四年の日本語詩は戦時下の、四六年の英詩は敗戦後の苦悶の中で、生きる道しるべとして書かれたのであろう」(430―431)として、戦中/戦後のコンテクストの移ろいを読みとっています。
・Seen and Unseenの"Sea of Loneliness"が、『自叙伝断章』(1947)では「寂寞の海」として邦訳されていますが、著者によると「晩年の野口は、若き日に第一詩集で詠った "Sea of Loneliness" を、さらに深い感慨を込めて詠い直した」「<Nothing>を<冥>と訳出したこの日本語詩は、おそらく英詩よりも深遠な<寂寞>を表現しえているのではないだろうか」(432)。
・『自叙伝断章』にはSeen and Unseenからもう一本"Like a Paper Lantern"が自己翻訳(「「ああ、友よ、なぜきみは今宵帰って来ては呉れないのか?」……」)されて収録されている。
・The Pilgrimage(1909)の"In the Inland Sea"は、『表象抒情詩集』(1925)で「瀬戸内海」として邦訳されている。
……と、このモノグラフに具体的に出てくるだけでもこれだけ自己翻訳がおこなわれていて、ほかにもまだまだあるようです。