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「コンピュータは小説を書いているか?」(※『すばる』2017年6月号掲載)

『すばる』2017年6月号に寄稿した「コンピュータは小説を書いているか?」という文章を公開します。

 

コンピュータは小説を書いているか?

 

1、人工知能の時代

 もはやこうした言い方も陳腐になりつつあるが、人工知能について注目すべき出来事がたてつづけにおこっている。二〇一六年には、Googleが開発したプログラムAlphaGoが囲碁のトップ棋士である韓国の李世ドルを破った。チェスや将棋とはちがい、碁ではコンピュータがトップ棋士に勝つのはまだ当分先のことと思われていただけに、この敗戦の衝撃は大きかった。AlphaGoは過去の膨大な棋譜を学習し、自分自身とはてしなくたたかいつづけることで短期間でプロ棋士をしのぐ実力をつけたばかりか、新たな定石すら生みだしつつある。

つい先日も、個人が開発したプログラムのponanzaが、はじめて現役のタイトル保持者である将棋棋士佐藤天彦名人を破った。内容的にも完勝といってよい。コンピュータ将棋の世界には、floodgateというサイトがあり、プログラム同士が二十四時間対局を繰り返している様子を見ることができる。そこで指されている手の意味を、もはやアマチュアはほとんど理解できない。人間のプロとはちがって、自分の手の意味など解説しないソフトウェアは、ただひたすらに勝利をめざして最短・最善の手を画面に表示するだけだ。機械の神々のことばの意味を、若手のプロ棋士の一部はなんとか解釈【傍点二字】しようとしている。ボードゲームの世界では、コンピュータが人間に挑戦する時代は終わり、人間がコンピュータに学ぶ時代になったと言える。

チェスを指す自動人形を描いたのは、エドガー・アラン・ポーの古典的なエッセイ「メルツェルのチェス指し」(一八三六)だった。しかし、現実のチェス人形は一九九七年にIBMのソフトウェアDeep Blueがグランドマスターのガルリ・カスパロフをきわどい勝負で破って以来、長足の進歩をとげているのだ。

 チェスや碁は技術革新の一角でしかなく、あらゆる分野をまきこんだ、人工知能による第四次産業革命が近い将来的におこると言われている。これによって、二〇三〇年には頭脳労働をふくむ人間の仕事の大部分を、コンピュータが肩がわりするようになると予測する専門家もすくなくない。そのなかで、小説を書いたり、評価するといった領域にも、AIや、その応用技術がもちいられつつある。本稿では、現在の人工知能が、文学作品を執筆することができるのか(執筆しているのか)ということについて書いてみたい。

 

2、村上春樹と『アンナ・カレーニナ』のハイブリッド?――『真実の愛.wrt――申し分ない小説』

 人工知能があらゆることができるとすれば、おのずと文学作品もアルゴリズムによって生成できないかということにもなるだろう。とはいえ、もとより(実際はどうあれ)人間と動物をわかつものとされるほど、神聖視されてきた言語の領域、なかでも実際にはないことを想像力で語り、複雑な構成と繊細な文体をもつ小説の執筆をコンピュータができるようになるとは思えない人間も多いのではないか。なお、このテーマについては最近邦訳が出版されたジョディ・アーチャー、マシュー・ジョッカーズ『ベストセラーコード』(川添節子訳、日経BP社)でも触れられているが、本稿はそれを参考に独自の調査をおこなったものであることをことわっておく。

 しかし、もはや旧聞に属する情報だが、二〇〇八年にロシアのサンクトペテルブルグのアストレリ社が刊行したロシア語小説『真実の愛.wrt――申し分ない小説』は、「世界ではじめてコンピュータが書いた小説」として、大々的に売りだされたという事実がある。後述するように、この小説が本当にコンピュータが書いたものなのかどうか判断に苦しむところがあるが、「世界ではじめてコンピュータが書いた」と世界ではじめて主張した、という点では「はじめて」と言えるかもしれない。この小説については日本でほとんど知られておらず、コンピュータと文学をあつかった論文や文章でも言及すらされないため、ここで内容を紹介しておくことには意味があるだろう。

 この『真実の愛.wrt――申し分ない小説』の表紙には「世界ではじめてコンピュータが書いた小説」と大書されている。そのわきに書かれた「P. C. Writer 1.0」が、「著者」であるプログラムの名前なのだろう。しかし、本自体には、それがどうやって書かれたかについてほとんど情報が記されていない。クレジットのページには、プロジェクト・リーダーとしてアレクサンドル・プロコヴィチというアストレリ社のチーフディレクターの名前が筆頭にしるされ、以下七名の「ソフトウェア」グループの人名と、七名の「文献学者」グループの人名が記されている。本文は二八五頁もあって、日本語の本に直すなら三五〇頁以上のかなりの長編になるだろう。

 出版社のサイトにも(意図的にか)情報はほとんどでていないので、雑誌記事やインターネットのさまざまな情報を総合すると、「最初のサイバー・ロマン」である本書は、複数の作家の文体を学習したプログラミングで執筆されたという。使用された作家はアンドレイ・プラトーノフなど、十二名のロシアの正典作家のようだが(正確なリストは見つからなかった)、唯一、外国人作家として村上春樹が選ばれている。だが、人気作家という以外に採用された理由はわからない。

巨匠の作品を人工的に再現しようとしたという意味では、トルストイ四号、ドストエフスキー二号、ナボコフ七号など奇怪なクローン作家が生みだされ、ひたすら自分のオリジナルのパロディ作品を執筆することを強いられるディストピア的な未来を描いた怪作、ロシアの現代作家ウラジーミル・ソローキンの『青い脂』(望月哲男・松下隆志訳、河出書房新社)を思わせるような話だ。しかし、単純に小説というアウトプットを求められるのなら、時間をかけてクローンを培養するまでもなく、コンピュータをもちいて文体のくせを分析し、再現した方がはるかに合理的なやり方なのはまちがいないだろう。

小説の作成自体は「文献学者」グループと「ソフトウェア」グループの合同作業でおこなわれたらしい。まず「文献学者」グループが、登場人物の性格や容姿、口調などの情報をまとめた「ファイル」を作成。その後「ソフトウェア」グループが小説を出力するプログラムを組んだという。このプログラムを組むのに技術者たちは八か月を要したが、コンピュータによる執筆(出力)自体は三日ですんだという。

肝心の小説はどんな内容なのか。ストーリーは以下のようなものだ。孤島のホテルで突然めざめた七人の男女。ただし、みな記憶をなくしており、島から脱出する手段もない。登場人物には記憶がないにもかかわらず、「だれかを殺さなくてはならない」という殺人衝動だけはもっている人間もいる。このように、設定自体は「孤島もの」という古典的なサスペンス小説を踏襲している。プレッシャーにさらされるなかで狂気にとらわれる人物がでて、いくつかの殺人がおこり、自殺者もでて、最終的に島に残されるのはたった一人になる。

小説は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』から登場人物の名前と設定の一部をかりている。なぜ『アンナ・カレーニナ』なのかと言えば、それが恋愛小説の古典だから、というのがその理由らしい(ただし『真実の愛.wrt』を、恋愛小説と見るのは題名以外無理がある)。キャラクターの名前は、アンナ、オブロンスキー、ヴロンスキー、キチィ、ドリー、レーヴィン、カレーニンなどであって、それぞれが『アンナ・カレーニナ』の設定を引きずっている。つまり、アンナとカレーニンは夫婦だが、アンナはヴロンスキーに魅かれている。ドリーとオブロンスキーも夫婦である、ドリーとキチィは姉妹である、というように。こうした「設定」をはじめ登場人物は忘れているが、物語がすすむにつれて自分の「前世」を思い出していく。

小説は平易なロシア語で書かれ、文体的な破綻などは感じられない。登場人物同士の会話もスムーズで違和感がない。逆に言えば、(期待するような)コンピュータで書いたような不自然さがなく、いささか拍子抜けするというのが本音だろうか。

文章については実際に読んでもらうのが一番だと思われるので、文体のサンプルをしめす意味もかねて訳出してみよう。小説は以下のように、唐突に書きだされている。

 

――周囲にはいまいましい海といまいましい岩しかない……。こんな気が滅入る場所であなたを殺さなくてはならないなんてね――女は口に出した。

 二人がこしかけていたのは岸辺に置かれたソファーだったが、水際ぎりぎりに置かれていたので、重苦しく荒っぽい波が――まるで仔をはらんだアザラシのように――岸まで這いだしてきて、ほとんど足に触れんばかりになっていた。沈む太陽が、灰色の水面のごく近くまでたれこめていた雲の下腹部を青白いピンク色に染めあげていた。そこかしこに白波がまだ見えていたが、はっきりしていたのは、二人が日がな待ちわびた嵐はおこりそうもないということだった。

 

絶海の孤島という舞台設定のため、周囲をとりかこむ海の描写は頻出する。ここでは波を指した「仔をはらんだアザラシのよう」という比喩が目につくが、これは村上春樹由来なのだろうか? (そもそも、ロシア語に翻訳された村上春樹の文体を模倣しているということもあって判断が難しい。)ほかにも、目につく比喩表現をいくつか拾ってみよう。

 

静寂をやぶるのはキチィの足音だけだった――まるで安っぽいメロドラマの女優のように手を後ろ手に組んで部屋をいったりきたりしていた。

 

彼女はあたかも頂上でなにか高価な賞品でも待っているかのように熱中して前へ前へ、上へ上へと登っていった。

 

どうやら、海さえもおとなしくなっていた。息を音高く、重たげに吐きだしながら、海はとうにうんざりした労働を果たすかのように、重い鉛色の波をけだるげに揺らしていた。

 

コンピュータが書いたからといって、比喩には違和感はない。いや違和感なく読める、と言えば聞こえはいいが、斬新な比喩というわけでもない。むしろ、手垢のついたたとえを――ひょっとすると既存の文学作品の文章を切りばりしたような表現を――持ちこんでいるように見える。

 小説の筋についてくわしい説明は省くが、孤島もののセオリーから外れることがなく、ひとり、またひとりと登場人物は殺されたり神経衰弱による自殺に追い込まれていく。結末近くで登場人物のアンナは、狂気にとらわれて自殺することになるが、その場面を引用してみる。

 

彼女の上空では、陽に焼かれた空で、かもめがけたたましく鳴いていた――あたかも呼んでいるかのように。

そしてこれ以上待つ力が残っていなかったアンナは、大きく両手を広げると、体をかたむけ、前に倒れた。それからそっと地面を離れると、はじかれたような上昇気流が、アンナを短い、狂騒のダンスで振りまわした。

 体がとがった岩に触れる寸前、アンナは騒々しい闇に覆われた――その闇は、レールの上を走ってくる存在しない列車の、目もくらむような光と、耳をつんざくような轟音で破られた。

 

唐突に登場する「存在しない列車」はもちろん、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の主人公アンナが鉄道自殺する有名な場面へのオマージュである――しかし、こうした間接的引用自体、コンピュータが意図したとは思えないし、陳腐にも感じられる。

このように世界初のコンピュータ小説『真実の愛.wrt――申し分ない小説』は、タイトルが指すように、たしかに「申し分ない【傍点五字】」が、それ以上でも以下でもない、文学的クリーシェの塊とでも言うべき作品だったのである。

 

3、コンピュータに小説が書けるのか??

 作品としてすぐれているかどうかは別にして、『真実の愛.wrt――申し分ない小説』は、このタイプの小説としては初版一万部と強気の部数で出版され、話題をよぶことになった。著名な作家のヴィクトル・エロフェーエフのように、この斬新なこころみを諸手をあげて絶賛するものもいた。

 ただし、専門家からは刊行前からこの作品は「フェイク」なのではないか、との声もあがっていた。当時の技術ではこのような完全な小説を生成するアルゴリズムを作成することは不可能だというのだ。二〇〇八年という機械学習もまだすすんでいなかった時代で、(おもしろいかどうかはともかく)これだけ理路整然とした小説をコンピュータが一から生成できるとは信じがたい。

 実際、二〇一六年の日本においてさえコンピュータに小説を書かかせるのは難しいようだ。昨年、人工知能が執筆した小説が実際に星新一賞の一次選考を通過したことでメディアにとりあげられ話題になったが、そのプログラムを作成した研究者による本によれば(佐藤理史『コンピュータが小説を書く日――AI作家に「賞」は取れるか』日本経済新聞出版社、二〇一六年)、そもそも二〇一六年の時点で、AIは自力で日本語の小説を生成することはできず、かなり作りこんだプロットをあたえ、さまざまに人間がお膳立てしてやってはじめて、小説の細部についての描写を出力することができるようだ。ショートショートを対象にした星新一賞が投稿先に選ばれたのも、長い小説を出力することがさまざまな制約によって難しかったためで(到底『真実の愛.wrt』のような長編を書くことはできない)、「AIが書いた小説が文学賞の一次選考を通過した」とマスメディアは騒いだが、当事者にとっても不本意な、誇張された報道だったようだ。

つまり、「コンピュータが書いた」と一口に言っても定義が非常にあいまいであって、部分的に書いただけでもよければ現在でも十分それは可能である。アストレリ社のチーフディレクターのアレクサンドル・プロコヴィチは、『真実の愛.wrt』を「どこまでコンピュータが執筆したのか」という質問に、コンピュータが出力したものを、世間一般に通用する「ことば」のレヴェルにまで人間の手で「加工」しなくてはならなかったことを認め、次のような発言で韜晦している。「これは農場と同じようなものです――だれがジャガイモを作っているのか? コンバインか農業労働者か? もちろんコンバインがあれば作業はずっと楽になるでしょう。だけど大事なことは、作っているのは結局のところ農業労働者だということなのです!」このあと、「P. C. Writer 1.0」の第二作は現在にいたるまで刊行されていない。

 結局のところ、どんな複雑なアルゴリズムにしたところで、すべて人の手によるものであることに変わりはない。小説を書くプログラムを書いている【傍点十六字】のは人間なのだ。その結果できたものはだれのものなのだろうか? ポーのエッセイ「メルツェルのチェス指し」のオチは、チェスを指すカラクリ人形は実はなかに人間がはいって動かしていたというものだったが、コンピュータ小説も同じことになりかねない。

 

4、実験小説を実現する

 『真実の愛.wrt』以降も――このうさんくさい先駆者とは関係なく――小説を出力するアルゴリズムを作成しようという動きは、世界中でおこっている。

二〇一三年、アメリカ人プログラマーのダリウス・カゼミは、「NaNoGenMo(National Novel Generation Month)」なるイヴェントの開催をTwitterで呼びかけた。カゼミは「ボット」のプログラミングで著名な人物で、たとえばそのひとつボット@metaphorminuteは、インターネットから既存の文章をひろってきて新しい(だがかなり奇妙な)比喩をつくりだすものだ。

カゼミが提唱した「NaNoGenMo」は、五万語の小説を一か月で書いて投稿する「NaNoWriMo (National Novel Writing Month)」を模して、一か月で五万語の小説を出力するプログラムを作ってみようという内容だった。この催しに提出されたのが、ニック・モンフォートによるプログラム「ワールド・クロック」だ。MITの准教授にして詩人でもあるモンフォートは、わずか一六五行のコードからなるこのプログラムを、わずか一日、たった四時間で書きあげたという。使用している外部情報はコンピュータに内蔵された地名データのみだ。

プログラムが出力した小説『ワールド・クロック』は、すべてのパラグラフが三つのセンテンスからなっている。最初のセンテンスはすべてIt isからはじまり、二番目はすべてIn someから、三番目はすべてHeあるいはSheからはじまるという特異な形式をもった小説だ。例として、作者のウェブサイトにあがっているサンプルから冒頭を訳出してみよう。

 

サマルカンドはちょうど五時零分だ。あるボロ屋で、ガンという、やや小さめの人間が、朝食のシリアルの箱のうえの、完全にでっちあげられた言葉を読んでいる。彼はくるりと完全に回転する。

 マタモロスはいまほぼ十八時一分だ。いくぶん薄暗いが、まだ見苦しくはない建造物で、思ったよりも大きくも小さくもない、タオという男が、レシピの切り抜きから数字のコードを読んでいる。彼はわずかに笑みをうかべる。

 

二パラグラフだけ訳出したが、これが一日の分数と同じだけ、一四四〇パラグラフも――ページ数にして二〇〇頁以上も――つづくのだ。もちろん、これを「小説」と呼ぶかは意見がわかれるところだが、ハーヴァード・ブックストアは実際にこの作品の紙版をオンデマンドで刊行している。ただそれを買わなくてもコードはウェブ上に公開されているので、自分だけの『ワールド・クロック』を出力してみることもできるはずだ。

 ちなみにこの「小説」の着想を、作者のモンフォートは、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの架空の本の書評「一分間」(長谷見一雄訳で岩波書店『世界文学のフロンティア 3 夢のかけら』に所収)からえたという。

「一分間」(一九八四)という短編小説は、J・ジョンソン、S・ジョンソン『人類の一分間』という架空の本の書評という、レムが得意とした形式をとっている。この『人類の一分間』という本は、「全人類が一分間にしているあらゆること」を数値化し、リスト化した内容という設定だ(たとえば、人間の心臓が一日に汲みあげる血液の総量は五三四〇万リットル、男性器が放出する精液の総量は四三トンといった具合に)。ただし、「一分間」はあくまで「書評」であり、レムは『人類の一分間』を実際には書かなかった。「一分間」に霊感をうけたモンフォートは、ある一日のあらゆる分間【傍点二字】をとりだして、「全世界のどこかしらでおこっているなにか」を書きだす小説をつくることで、ある意味でレムの荒唐無稽な思いつきを実現したのだ。

モンフォートが、レムの八〇年代の小説からアイデアの一部を借りたのはおそらく偶然ではない。結局のところ、『真実の愛.wrt』のどこかで聞いたことのある比喩にしろ、カゼミのTwitterのボットにしろ、ウィリアム・バロウズが半世紀以上前にすでに着手していた「カット・アップ」(既存の新聞や雑誌から任意のことばをひろいあげて文章をつくる手法)をコンピュータをもちいて効率的に、あるいは広大なネット空間で大規模におこなっているにすぎない、とする見方もできるからだ。

イタリアのナンニ・バレストリーニは、「電子詩」と呼ばれる、コンピュータをもちいた実験的な創作をおこなう詩人である。さまざまな媒体から引用してきた言葉と言葉を混ぜあわせることで、思いがけない効果をうむ。そのバレストリーニが二〇一四年に刊行した小説『トリスターノ』は、ランダムな内容を実現している。用意した文章のかたまりを、コンピュータが本ごとに変えて(英訳版の解説を担当したウンベルト・エーコいわく「まるでレゴブロックのように」)組み合わせるため、内容が一冊一冊すべてことなるという特異な形式をとっている。センテンスやパラグラフの総組み合わせは一〇九兆通りにおよび、表紙のそれぞれにシリアルナンバーが記載されている(ちなみに私の手元にある英語版の表紙は一三二〇〇だ)。

二〇一四年に刊行されたこの作品が、詩人によって最初に構想されたのは、一九六六年のことであり、オンデマンドによって実際に出版が可能になるまで半世紀近く待たねばならなかったことになる。その意味では、レムにしろ、バレストリーニにしろ、時代と技術が作家の文学的イマジネーションに追いついてきたとも言える。二十世紀後半以降に書かれた小説は、小説のあらゆる可能性がすでにためされてしまった(ように見える)なかで、「オリジナリティとはなにか」ということ(あるいは「すでにオリジナルなものなんてない」ということ)を無数の文学的実験をつうじて問いかけてきたが(日本の最近の作家では円城塔は明らかにそのような系譜に属しているだろう)、コンピュータ小説は期せずしてその轍を歩んでいるようにも見える。

もちろん、囲碁のソフトウェアが人間の棋譜の学習からはじめ、最終的には逆に人間が学ばざるをえない定石をうみだしているように、技術の革新によってコンピュータ小説も将来的には人間が到達できない「オリジナリティ」をうみだす可能性はあるだろう。もっともfloodgateでおこなわれている神々の遊戯の意味を常人が理解できないように、人工知能が、まったく新しい文学作品をうみだしたとして、それを人間が理解できるのかはまた別の問題になる。「人知を超えたもの」との邂逅における理解不可能性――これもまた、『ソラリス』においてレムが描いたモチーフだったが。

 

 

 

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