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【書評】村上春樹『一人称単数』文藝春秋

『読売新聞』二〇二〇年八月一日夕刊

村上春樹『一人称単数』文藝春秋

 

 不思議なタイトルの短編集だ。実際、本書に収録された短編はどれも――「ぼく」や「私」のちがいはあるが――「一人称単数」で書かれている。そして語り手自身も、生まれ育ちから趣味、職業にいたるまで村上自身のプロフィールをなぞっているように見えることもあって、非常に私小説的に読めてしまう作品集でもある。


 もちろん一編一編は著者の伝記的情報を借用しつつ、フィクションの要素が散りばめられ、短編小説として練りあげられている。他方で、やはり今年刊行された随筆『猫を棄てる 父親について語るとき』は、初めて父親とのプライベートな関係について語ったものだった。村上が短編集のあとは長編小説という順番で作品を発表してきたことを考えると、本作のあとに書かれるはずの長編は、かなり自伝的な内容なのではないかという予測もなりたつ。


 もうひとつ、気になるのは表題作である書き下ろし短編「一人称単数」だ。この短編で「私」は、バーでたまたま居合わせた初対面の女性から、過去に「水辺」で友人の女性に「ひどいこと」をしたと詰られる(しかし本人は身に覚えがない)。この作品では謎解きがされるわけではないので、読者は疑問を抱えたまま本を閉じることになる。これはある種、フェミニズム的な批判を浴びることも少なくない村上が、その状況を皮肉ったものともとれる内容だ。他方で、村上作品は一見そうと見えなくても、自伝的な事実にかなり基づいているのではないかとは、よく批評家に指摘されるところではある。そうであるならば、今まで歴史や宗教といった数々の「重い」テーマを扱ってきた作家が、いよいよ自分の過去――意識的にはっきりと描くことを避けてきたもの――と本格的に相対するということの「予告」としてもこの短編は読めるのではないか。


 いずれにせよ、今や世界的なセレブになった作家が、自伝的な長編小説を書くとすれば、注目を集めることはまちがいないだろう。本書をそのような試みのひとつとして位置づけてみたい誘惑に駆られている。

 

 

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