岩波書店『文学』の最新号に「術語としての「世界文学」--1895-2016--」という論文を寄稿しました。
「世界文学」というこの何気なく使っている言葉が、どのように入ってきて、時代時代の文脈に合わせて使われてきたのかを追った文章になっております。
この号の『文学』は「特集 世界文学の語り方」と題しまして、現在なにかと話題になることが多い「世界文学」について、さまざまな文学の専門家が論考を寄せたものになっております。
特集のために、メンバーと1年以上にわたって、サントリー文化財団と岩波書店の後援をえて、定期的に研究会を積み重ね、それぞれの専門知識を交換してきました。また、執筆者の多くは、ほぼ私と同年代の研究者(70年代後半から80年代前半生まれ)です。そのこともあって、最近の国際的な研究動向がかなり反映されたものになったと思います。私自身今まで多くの雑誌の「世界文学」特集に読んでいただきましたが、今回の特集は、ユートピア的、礼賛的な「世界文学」に飽き足らない向きに読んでいただきたいと思っております。
特集の目次は以下のようになっております。
《特集》世界文学の語り方
術語としての「世界文学」――1895-2016――
秋草俊一郎
近代日本における漢文または漢籍の叢書について――その位置付けと盛衰――
上原究一
中村真一郎における王朝の発見――「世界文学」概念の受容と影響――
戸塚学
開かれたパンテオン――「プレイヤード叢書」をめぐって――
福田美雪
ナチス占領下の「世界文学」
奥彩子
「父の娘」のノーベル文学賞――セルマ・ラーゲルレーヴ『ニルスの不思議な旅』が描く国土と国民のカノン――
中丸禎子
オリジナルなき翻訳の軌跡――ダニエル・アラルコンとアレクサンダル・ヘモンにおける複数言語と暴力性――
藤井光
世界文学と東アジア――夏目漱石・魯迅・李光洙と「新たな根源」――
橋本悟
小さな文学にとって〈世界文学〉は必要か?――あるいはチベットの現代小説を翻訳で読むことについて――
鵜戸聡
《書評》
1)文学を遠くから見る――フランコ・モレッティ「遠読」という方法――
山崎彩
2)エミリー・アプター 『翻訳地帯――新たな比較文学』
山辺弦
3)文学的接触空間としての東アジア文学研究――カレン・ソーンバー『動的テクストの帝国』,『エコアンビギュイティ』――
松崎寛子
4)アレクサンダー・ビークロフト 『世界文学の生態学――古代から現代まで』
デビッド・ボイド
5)ディーター・ランピング 『国際的な文学――比較文学研究分野への導入』
井上暁子
特集の特徴として、書評を充実させました。 「世界文学」をめぐるここ10年の議論で頻繁に参照される文献を紹介したもので、よい「ブックガイド」になったと思います。ここだけ読んでもおもしろいと思います。
正直、日本だと、ごくごく基本的な了解も共有されていないことがあって、議論をしていてもその部分を確認するだけで終わるというのがひとつのパターンなので、発展的な議論をするためのインフラとしても研究書の翻訳やこういった書評は書かれるべきでしょう。現在は90年代と違って、さまざまな事情により(中間読者層の消滅、大学教員の多忙など)、欧米で重要だとされている研究書でもどんどん翻訳が出るという時代ではなくなっています。単に翻訳されたものだけを読んでいて議論していると、ギャップがどんどん開いていってしまうでしょう。
ちなみに、『文学』は、長い歴史をもつ雑誌ですが(1933~)、今年をもって休刊することが決まっています。このことはメディアでも大きくとりあげられたので、記憶されている方も多いと思います。
本号(9・10月号)は、最後から二番目の号ということになります(penultimate issue)。歴史の終わりのほうに出番をいただけたことを大変光栄と思う一方で、そのような状況になっていることを原稿でも意識せざるをえませんでした。
『英語青年』、『言語』など、業界を牽引する雑誌が次々と休刊になっていますが、人文書が売れなくなっているのと同様、長年出版界を支えてきた「中間層」がいなくなっているという事態を示しているのでしょう。
仕方のない面もありますが、研究者が一般読者の目を意識する場がなくなると、学界もどんどん閉じたものになり、自分たちにわかる言葉でしか仕事をしなくなるのではないか、今後、若手が執筆を目標とする媒体がなくなってしまうのではないかという懸念は大きいです。
(↓ここ最近「世界文学」を特集した雑誌です。)