『静岡新聞』 二〇一九年五月二六日ほか
鴻巣友希子『謎とき『風と共に去りぬ』―― 矛盾と葛藤にみちた世界文学』新潮選書
テキサスのある文学博物館で、『風と共に去りぬ』の展示を見たとき、ツアーの参加者がみな『風と共に去りぬ』の熱烈な愛読者で、三回、四回と読んだという人が多いことに驚いたことがある。別の文学博物館でも「アメリカ小説ランキング」を見ると、やはり南部小説のハーパー・リー『アラバマ物語』などと並んで必ず上位にあがっているのがこの小説だ。あれだけ分厚い小説をひとびとが熱心に読みついでいること、これは大学の教室で「文学」を学んでいると気づきづらい現実だ。
さて、本書は近年その分厚い小説の新訳を成し遂げた訳者による『風と共に去りぬ』の解読【ツアー】本だ。大ヒット映画の原作、ストーリーテリングたくみな大衆小説という思いこみがあると見落としがちな細部に光をあてていく。むしろ著者の議論によれば、そういった消費されてしまいがちな要素にこそ、「謎」が隠されている。たとえば、今となってはこれほど映像化にむいた作品はなさそうに思えるが、その話を持ちかけられたミッチェルは無理だと思っていた。それはなぜか、といった具合だ。
そういった読者側のステレオタイプな思い込みを破っていくところに本書の爽快感があると言える。それを語るツアーコンダクターたる著者の語彙も「ドS」「ビッチ」といったサブカル系の語彙から「マルチカルチュラル」「コンポジット」のような批評的語彙まで目まぐるしい。
前半の原作と映画の比較や、有名な台詞「明日は明日の風が吹く」のでどころといったとっつきやすい話題から、当時隆盛のモダニズム文学との距離の置き方、悪名高いクー・クラックス・クランとの関係など、小説の深部に一般読者が自然と引きこまれていく構成は、かならずしも筋道だったものとは言えないが、ごく軽い「ツアー」のつもりで参加したはずが、気づくとずいぶんと深部にまで来てしまったとの思いを抱かされる。
本書の終わりには、アメリカのアーカイヴ資料を用いた結末の読み解きにたどりつく。その手際は研究者はだしだ。